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1117日(水) バウルーにて

 バーラ・フンダバス発着所から11時発バウルー行きに乗りこんだ。2階建ての立派なバスだ。2階の席は見晴らしが良く、下の席はビジネスクラスの席のよう。値段は同じ、でも下から埋まる。

 2階の真ん中辺に乗った。兎に角、長距離ハスの一番大変なのは、トイレ、前立せんがあるので、ヒ汗。ところがトイレ付、120キロmの辺の休憩レストランに着くまで、少し無理したが、OK.大感謝であった。

 バウルーには4時半に着いた。明日のアラサツーバ行き9時半のバス切符を買ってから、中前牧師宅に電話する。2回目で通じた、感謝、感謝。

 バスターミナルのTVがブラジル・アルゼンチンの南米タイトル戦サッカーを放映していて、緑色の60脚程のイスが満員、立ち見席の出るほど。最後の最後にアルゼンチンに一点入れられて、ブラジルが負けた、皆すごすごと仕事場に戻って行って席はガラガラになった。私はもうしばらく中前牧師を待った。
 夜の礼拝では、イスがUの字型に回るくなって20人ほどの礼拝。フランネルグラフで「東方の博士たち」のお話をした。伊藤さんがニコニコしながら来てくれた。その他、坂下さんお祖母ちゃんとその娘さん、そのお友達の堀お祖母ちゃん。一緒にお祈りをした。感謝感謝。伊藤さんはもう洗礼を受けるらしい。

 今度は、日本語だけの集いを坂下さんのところでできたらいいと、中前牧師と帰りがけに車の中で話し合った。少しでもお役に立てられるならば、幸いだ。

 サンパウロよりも暑いので、よく眠れるか、兎に角、ワープロで今日の日記を書いてみた。

 

2010.11.18  アラサツーバ、簡易ホテルに泊る(朝食付き約2,500円)。

 9時半のバスでバウルーのバスセンターを出発、目が覚めたら次のリンスだった。ここにも日本人の集会がある。やがてはここも訪ねたい。

 それから車窓から外の景色を眺めていたら、カンナ畑、エタノール工場が10分おきほどにあって、驚いた。その間に各所にコーヒーの古木が野ざらしになって放置されているのが見えた。こんな最近までコーヒーを造っていたんだと懐かしくなった。今はカンナか…

 昔、30年近く前、ゴイアニア州の伝道をしていた時、ミナス州境で日本人の方が相当広くコーヒーを造っておられて、当時コーヒーの値段が世界情勢の中、持ち直し始めて、桁外れの収穫が予想されていたが、収穫時に世界的に平和の兆しが見え始めて、ニューヨーク価が大下落を始始まった。
 収穫の手間賃を払えないから収穫しないと、風の便りに聞いたこともある。折角、良い値段がついて喜んでおられた顔が思い浮かんで、祈らされた。平和が来ると値段が下がるとは、大きな皮肉なのだ。アフリカでもコーヒーを造り始めると、もう、ブラジルでは採算が合わず、コーヒーが作れなくなると言う。


 アラサツーバに近付いてくると流石に牧場が多くなり出し、のどかな広々とした大農場風景が見られる。たった20キロ手前のビリグイ市はかつて鞄の町、今は靴の町。日々、20万足の靴を国内外に送りだしている。かつて4,5万ほどの町が今は15万を越えている。

 朝食つき、トイレ・シャワー・エアコン付きの2.500円程のグランデ・ホテルに泊まっている。名前はでっかいが、内容は…
 午後から、これからのために、ホザナ福音教会を訪ねた。幸い、丸谷先生ご夫妻もいて下さって、トラクト配布のことも話し合った。大いに共感しあい、兎に角日本人の最後の時になんとか一度でも文書を通しても福音を知って頂きたいと言うことで言うことで感謝なお出会いをさせていただいた。
 夜の集いが8時半からあるとのこと、でもまだこの町に慣れていないし、町外れなので一人歩きを遠慮させて頂いた。日曜日には、説教してくださいとのこと、この方は、朝
8時から、これにはOKしました。


 ホテルの近くにペンソン(簡易宿泊施設)があると聞いて2時間ほど歩いて4,5件を見聞きしたが、部屋にトイレが無かったり、カビ臭かったり、夕方から人通りがなかったり、朝食が出なかったりで、結局、このグランド・ホテルの方が条件が良いのを知って、費用が多少かさむが、この先当分はここに泊ることにしようかと考えた。

 ここは、バウルーよりももっと熱く32,3度である。私にはサンパウロより快調のように感じる。ゴイアニアに3年、マナウスに20年、ブラジリアに2年、暑い中にいるのが自然にな状態になっているのが、この年になっても暑さが良い理由。体が地方を探しているようだ。

 

1119日(土) アラサツーバ日伯文化協会。大きな扉が突然開いた。

 ビックリすることに、神様が突然道を開いてくださったこと。日伯文化協会を訪ねる。すでに前回お会いしていた事務局長の中村氏、初めての会長の白石氏とお会いする。ペンソンのようなものを探していると言ったら、文化協会の寮に泊ってはどうかと言って、見せて下さった。今は、誰も泊っていず、皆出てしまったと言う。今は、寮に対する学生たちや青年たちの条件が高くなり、各部屋のトイレ・シャワーガあること、台所に各人のスペースのある冷蔵庫のあること、クーラーが使えることなどで、日系人のレベルが上がっているのである。その反面、モラルは低下しだして、女子寮でも男子の出入りが自由であったり、音響のボリュームが隣に部屋に迷惑になっての平気であったり、規則は有って無きが如しと事務局長は嘆く。そのあげく鍵を持ったまま無断で寮を出てしまい、その後、寮生の自転車やその他が盗まれた、と言う。

 兎に角、泊っても良いことになった。ただ、まだ寮費が分からない。そして、日本語クラスの建物も、同じ敷地内にある。勿論今は常駐しないので、日本語教師は無理であるが… 一変に、ここの日本人会の中枢に接点が持てる可能性が出て来た。具体的にはどのような歩みを進めたらよいか、大いに祈らされる。費用に捻出がまず問題だ。今でぎりぎり、伝道費がどれくらい与えられるかが大きな祈りの課題になってきた。
毎月少なくとも6,7万円あれば、何とかなるか。現在がいくらか知りたい。

 兎に角、急展開なので、どう考えたらよいか、なかなか、祈らされる。でも、道は開かれたのだ。大きな戸が開き始めたのだ。向こうから開き始めたのである。神様が次に何をなさろうとするのか、全く分からない。

 
1120() 朝から小雨が降ったりやんだり。教会に丸谷先生をお訪ねする。

 昨日の文化協会訪問の報告。大きな扉が開き始めたこととお話し、ホザナ教会の方々との間の伝道に対する違いを説明しておこうと思う。
 
私としては、文化協会との良い関係が生まれたことは、10年は伝道が進んだことと理解していると申しました。文化協会との関係が生まれたことは、両刃に剣であること。しかし、日本人の方々の訪問にとって、その地方の中心で信用を得ことは、市内のみならず、さらに奥地で訪問される人々にとっても、周囲に気を使わないでトラクトがもらえ、訪問を受け入れ、家庭集会へと結び付き易いこと。

 それに将来、日本語の教師になれば、家庭に教師としての情報が入って行き易いこと。このような地域は、日本人のご家庭も長い間に横のつながりがしっかりし、親戚関係になっていることが多いので、子供たちの中へ入って行く以外に、殆ど、アラサツーバでは家庭に入ることが困難であること、をお伝えした。少なくとも56年は、ノンビリ慌てないで、地域の日系人方に友達として信用されることが絶対に必要である旨をお話しご了解を頂いた。

 丸谷先生の息子さん達とも知り合いになり、公務員をなさっている一番下の息子さんも好青年。職場の同じ係は皆が女性で日系人とか、いかに日系人が公務員試験などまじめに受け採用されるかの証明のような感じである。

 日系教会はほとんど成熟期を迎えて、未伝地方の訪問をなさらない中で、ホサナ教会は訪問されるので、この地方とさらに奥地の日本人・日系人訪問には最適なのであることを正直にお伝えした。

 私の学生時代は、休みとなると、学生会の仲間としょっちゅう、パイオニアクルセードで関東地方の山間部や海岸地帯へトラクト配布に出かけていたこと。ブラジルでも、開拓伝道ばかりで、いつも車で、自転車で、船も使って、訪問していたことをお伝えして、文化協会と言うセキュラーな社会に入ることもご理解いただき、安心していただいた。

 アラサツーバ市は、さらに四方に向かって日系社会が大きく広がっていて、福音が届きにくいし、それだからこそ文書活動が必要なことを蛇足ながら、ご理解いただいた。車で宿舎のホテルまで送って下さった。

 明日は、礼拝朝8時から日曜学校は10時から、昼食は1時から、弓場農場へのバスはターミナルから2時半なので、切符を昨日買っておいて良かった。礼拝もCSもご用してくださいとのことで、フランネルを使ってさせていただきだきたい旨、お伝えし了解を頂いた。 取り敢えず市内は自転車で、そのうち自動車がどうしても必要になろうと思った。

 

1121()  アラサツーバ・ホサナ教会でご用。午後弓場へ

  初めて、ホサナ教会の人たちのお会いする。経済的には、息子さんたちが支えているようだ。8時からの大人の礼拝は10名ほど、献金はなかった。

  3男の方は、もう30歳くらいになっているだろうか、一番下が、27歳と言う。本当にご苦労なさってきたはずだ。今は、これからと言うところだ。わたしの奉仕に喜んで下さった。

  昼食をいただきながら、CSのことをいろいろ話し合った。CSには、子供たちが20人ちょっと足りないくらい。日系のハーフの子供が34人他はブラジル人の中流以下と言う感じの子供たちだ。でも、

 

よく集まっている、将来性が十分。 

  昨日、アラサツーバの宿泊していたホテルのすぐ横にある、第一バプテスト教会を訪ねた。青年特集であった。ユースパスターと言うダニエル牧師が、「恋愛」について、熱く語り、寸劇あり、激しいビートの賛美あり、音楽ありで、私には最も私がしたいことを目の前で実現してくれているようで、陶酔し、感動した。

  イサクとリベカのテキストを通して彼は語りだした。「恋愛」と言えば、かつてはキッスまでであったが、今は、カミジンニャ(衛生サック)になってしまっている感がある。私たちが結婚をした1996年、わたしの最初のセックス体験は結婚式の日、家内とであり、家内の初めてのセックス体験も結婚式のその日、私とであった」と結構ニコニコしながら話していたのには、感心しビックリした。と言うのは、私の娘が「クラスで初体験がないのは、あなただけよ」と大学の友達から言われたと結構ビックリしたように家内と話していたのが、心に残っていたからだ。その点、日本人は遅く手なのだろうかと思っていたが、そのユースパスターは、続けて、「私たちの恋愛は、三角形で、上に神様、下の両サイドに男と女が来るのが理想的であるし、それが聖書で求める神様の願いなのです」と言い切った。「本当に、神様に喜ばれる恋愛をしたい兄弟姉妹は、前に出て来て下さい」と言ったら、780人が前に出て行ったのには驚かされた。前に行かなかったのは、45人、わたしもその一人だった。

 ペンテコステ系の教会の異言や狂信的に叫び出すことはないが、純粋に神様に委ねたいと言うことが涙、涙、涙の中に感じられ、バプテストもプレスビテリアンも元気のあるブラジルの福音派に感心し、凄く晴れ晴れとした感じで、昨夜は宿舎に帰った。

 日曜午後、久々に、弓場農場に着いた。2回目なのでかなり自分のペースで農場での生活が始まった。夕食後は、指定された前回と同じ部屋に入って、荷物を整理し、洗濯をし干してから、部屋に電気を点け、ホッとしていると、前の家から、バイオリンの音が、後ろの家からは、太鼓や寸劇の練習の音が聞こえ出した。
 結構暑い中、弓場の風呂に入った。胸に出来ていたデキものともイボともつかぬものが湯船に入る前に落ちていた。不思議だ。
 弓場では、労働を終えて、シャワーに入ったり風呂に入ったりしその日の汗を落とす。夕食をして、それからのひと時が、芸術する時なのだ。凄いな
~と感心した。暑いから、マドを開けていると、10種類ほどの虫が、明かりにめがけて飛び込んでくる。ここはクーラーもない自然の中なのだ。居間にあった扇風機をわが部屋にお借りした。意外に蚊の少ないのには助かっている。でも、アラサツーバ市内で買ってきた電気蚊取り線香はセットした。


 

 1122()  弓場農場。シイタケの種植え用チップ作り

  朝、6時の角笛がなる前に起きていた。Tシャツでは少し寒い。ボーボーという音が聞こえて食堂に行った。

  主の祈りが唱えられた。長老の祈りは肺の一番奥にまで届いて、主のご臨在を感じさせた。
 ご飯もパンも弓場自家製のジャムやバター、チーズ、ゆで卵、スクランブルエッグ、生野菜類、果物各種。牛乳は外から来る。パンを2枚切って火鉢の炭火の網に乗せ少し焼いた、終戦後の経験だった。バターとマンゴージャムを塗って、ミルクコーヒーとバナナを持って、いつも座る矢崎さんのテーブルに着いた。
 矢崎さんとはメールでいつも連絡させて頂いている事務局長的存在だが、ここのバイオリン・チェロの先生で聖歌隊では超迫力あるテノール、弓場劇場では照明責任者。お父様が牧師。青年時代に弓場に呼ばれて渡伯なさったとか、奥さまは弓場家の方。弓場は老若男女、美男美女が多い。


 8時半。初めて、辻さん夫妻の作業場、マンガの丸太にシイタケ菌を植え込む小さなチップ作りのお手伝いをした。マンガの木の適度な幅で薄く切っておいて、冷凍にして保管、0.8cm程の丸い穴のあいたタガネで2cm程の長さで小さな円柱を打ち抜いて行く。実に単純労働だが、腕と肩の力を使う作業だ。69歳の私が午前中持つのか。

 作業説明後、8時45分ころから始めて10時半ころコーヒーミルクを飲みながら10分くらい休んで、また再開。
 12時昼食、セルフサービスで自由に大きなテーブル上のそれこそ20種類ほどのおかず、好きなだけお皿に取る。野菜類が多い。湯で卵やトウフもある。

 午後は1時間半昼寝、弓場の花の写真を撮って、また、2時間くらいチップ作りに精を出した。そのセクションは以前は、5人程作業員がいたとか、今は、娘さんが結婚してアメリカに行ってから、夫婦おふたりでシイタケ栽培。なかなか大変だ。明日も肩が上がれば午前中だけでも、お邪魔したい。弓場の人々と少しづつ知り合いになれて感謝だ。

 弓場の夜は、芸術の村に変貌する。各所から弦楽器や打楽器、バレーやドラマの練習の声が聞こえる。8時半には角笛がなって、クリスマス・クアイアーの練習が始まる。四つのパートでハレルヤコーラスやラテン語でグローリアも合唱してしまう。私など、諸人こぞりてや聖しこの夜までが精々だ。弓場の華麗なる変身だ。日本からここを訪ねた山伏がホラ貝の笛を吹いて、これは結構難しいのですと言った。すぐ近くにいた弓場の子供がいたずらに、ホラ貝をとって吹いたら、綺麗に音が出た、と言う。ここは子供でも山伏のレベルらしい。

 責任者の弓場常男さんとお話ししていたら、若い人でも中年の人でもスポーツや芸術に興味のある方で、祈り、労働、芸術に共感できる方歓迎と言っておられる。

 日本からも来てほしいなーと思った。アラサツーバから2時間の弓場の村にも人口減少の傾向が進んでいるので助けて欲しいとのこと。この三原則に共感してくれれば、衣食住はタダでいられる。なんと、素晴らしい条件か、その上にブラジル自身も学べる。
 シイタケ造りに欠かせないチップ作りのオートメの機械を造ろうと請け負った、一年掛かりで。自分の居場所が確保されてきた。

 弓場農場の現在ある工作機械類があれば作れそうだ。ポンペア市の西村さんのジャクトが一番助けになるか、農業機械ではブラジルでも有名だ。空き缶からコーヒーカップや石油ランプを作り始めて大きくなった立志伝中の人、クリスチャンである。

 中田の弱点は、アマゾンでの学校の経験があるので、つい、気が付くことを言ってしまうことだ。アラサツーバの場合でも、これまでのアラサツーバ日伯文協の経験と歴史を無視して、余計な口出しをしてしまうことだ。日本語に関しても、色々な改善策を気付いてしまい、結局は全部感情的に受け入れられなかったサンパウロのアルモニア学校と同じような失敗を繰り返してはいけないことだ。その点、今が一番危ない。

 アラサツーバの閉鎖中の日伯文化協会の学生寮や幼稚園の問題などの解決策を性急に出すとそれに携わり苦労してき人々は、自分が責められているような感じになって感情的に受け入れられないだろう。むしろ、弓場で改良機器を造って頭と時間を費やしている方が遥かに良いと言うのが結論だ。この弓場での滞在は、予想以上に効果的な面を沢山含んでいるように思われる。もちろん、その間にもこの地域のトラクト配布の経験を積めるだろう。感謝、感謝。弓場に受け入れられるということは、日系コロニアの中心的人々を輩出しているアリアンサ移住地、引いては、アリアンサ出身の方も多いアラサツーバ日系社会にも好いと思われる。

 明日は、朝7時、弓場農場を離れて、市のスクールバスで弓場の子供たちと一緒に便乗してアリアンサ移住地のバス停へ、そこから、30分でミランドポリス市へ、アラサツーバ市までは、さらにバスで1時間半。そこから、午後のバスでバウルー市へ2時間半。夜は、バウルー・アライアンス教会でメッセージ。25日朝、9時のバスでサンパウロへ。午後2時ころには着くであろうか。

 中田の69回目の誕生日を我が家で祝う予定。緑は、仕事が忙しくて来られないらしい。
 実たちは、遥か1千キロのブラジリアで、飛行機代は出せない。来年70歳には、集まれるか、鬼が笑いそう。

 
 1124() 無事バウルーに着く。バウルーアライアンス教会で説教 

 弓場の朝、5時半ころから忙しかった。帰りに支度である。昨夜も用意はして殆どOKだったが、少しもたもたしていたら、スクールバスの乗り遅れてしまいアリアンサ-ミランドポリス街道まで荷物を持って上った。わずか300mほどだが上りは息が切れる。7時に乗れた。ミランド行きである。ミランドのバス停でブラジリアの実に携帯がやっと通じた。疲れたが、良い気分である。

 アラサツーバで丸谷先生にお電話して、森本兄が来られるときのこと車の手配をお願いした。OK下さった、感謝である。明日のサンパウロ行きの切符も買えた。

 


バウル、アラサツーバ巡回報告

日程; 2月23日から3月1日まで

 バウル;伊藤氏と共に祈る。

23日夜、アライアンス教会にて水曜祈祷会22時、ご用す。20名ほど、祝される。実は、バスを間違えて、バウルより先マリリアまで2時間乗り越し、2時間戻って体力的にはくたくた、その日は福浦聡兄の所に初めて宿泊。

24日は、午後日本から来て3年目の伊藤氏を訪問。感動の聖書31箇所を渡して毎日1ページづつ聖書箇所とともに読むようにお勧めする。旧約の大量殺人(凄絶)はどう理解するのか、聖書は間違いがないのか、まだ、ポルトガル語がまったく分からないが、どうしたらいいのか、などの質問がでた。

 バウル将棋クラブに招待さる。

その後、ひょんなことで知り合いになった大川氏をお訪ねする。バウル将棋クラブの世話人をやって折られて、ぜひお出でなさい、とのことで、お訪ねする。丁度将棋をなさっておられて、4人ほどの方が将棋を指しておられた。すぐに3段の仏教のお坊さんと中田が対戦、二回とも、中田が勝って4段の面目を施す。「またぜひ来てくれ、バウルに住まないか」など歓迎を受け、次の機会を約す。

 ポンペイア;西村次郎氏を訪ねる。

 25日は、マリリア経由でポンペイア市、農業耕作機製造所JAKTOを訪ねるため宿泊。26日(土)朝、西村氏と本当に久しぶりに会う。工場を見学500人ほどが働いていた。ブラジル農業の発展と共に大発展している感じ。

 西村氏を訪ねたのは、弓場農場のシイタケ作りの機械化、5人でやっていた

仕事が遂に、二人にまでなり、マンガの木から作るシイタケの種菌を埋め込む小円柱片を作るのが大変な仕事。それを何とか軽作業化できないか、その相談。

一応、中田が簡単な図面を5枚描いてみた。それを、いろいろな角度から助言してもらうため。いい話し合いで、中田が作る積りででいたが、ジャクトで作って呉れると言うので、アラサツーバ方面の旅費が3,4回分助かった。感謝感謝、勿論、ジャクトには経験も人材も知識も豊富、財力は桁違い、巨人と蟻のようなもの中田と比べたら、有り難い。神様に感謝。

 その午後、まったく知らなかった新しい道をバスで5時間ほど、アラサツーバに着いた。将来、これらの町々をトラクト配布するのかと思うと、各駅停車のバスも、意義があったが暑いアスファルトの道を走るバスは32,3度、水を飲み飲み外を眺めていた。

 アラサツーバ;ホザナ福音キリスト教会と丸谷先生ご一家。

 相変わらず礼拝は7,8人。教会学校は、子供12,3人、大人5,6人。子供に力を入れたら将来は、開かれる。礼拝もCSも、全部ポルトガル語。ただ、古いタイプの内容で、よくこれでも元気なブラジルで育っている子供たちが続いて来ていると感心している。

今どき、ブラジルでギターもバッテリーもない教会学校など無いと、言える。

他教会は、このカーニバルの時は盛んにキャンプをやっているのに、残念だ。

賛美グループやバンドグループや聖書劇グループが1,2年の訓練で生まれたら、生徒たちの教会になれれるのに残念だ。次の時には、話、祈っていけたらと思う。春日井でも、5,6ヶ月話し合い、祈りあって来て、今は思っていた以上にその家族までが信仰が確かになっている。

 これから、少しづつ話し合って行きたいと丸谷先生も賛成してくれている。兎に角、少しづつなのだ。

 アラサツーバ将棋クラブ;増永氏宅。
 
バウルの大川氏にで紹介されて増永氏宅に月曜日、電話。すてぐ来てといわれタクシーで連れて行ったもらう。息子さん一家が新教の教会に行っているとかで、とても親切、神様の導きを感謝。対戦は、中田の1勝2敗、5段で、全ブラジル大会でかつて優勝なさったとのこと、とても強い。でもいい仲に成れそう、もう、74歳とか。

 お祈りを心から感謝いたします。