家族同様(かぞくどうよう)の暖(あたた)かさで                三浦(みうら)清春(きよはる)

 

コチア単独青年移民(たんどくせいねんいみん)

神奈川県(かながわけん)より、ブラジルコチア単独(たんどく)青年移民(せいねんいみん)として、1956年(ねん)11月(がつ)に入国(にゅうこく)。コチア農業協同組合(のうぎょうきょうどうくみあい)の農業(のうぎょう)移民(いみん)として6ヶ月好意(げつこうい)で、農業者家庭(のうぎょうしゃかてい)での訓練(くんれん)を受()けました。それから、他()の農(のう)()へ移(うつ)ります。

 それで私(わたし)は、サンタマーロの奥(おく)のエンブーラ部落(ぶらく)に来()たのでした。

 

ローソクの明(あ)かりの中(なか)で

    エンブーラ部落(ぶらく)に来()てお世話(せわ)になった農家(のうか)が、今(いま)は亡()き坂東(ばんどう)さんでした。そこでは家族同様(かぞくどうよう)な生活(せいかつ)が始(はじ)まったのです。

 この家(いえ)の皆(みな)さんはキリスト教(きょう)の信(しん)

(じゃ)でしたので家族(かぞく)の皆(みな)さんによって教会(きょうかい)に行()くように勧(すす)められました。

それである夜(よる)の集会(しゅうかい)に行()きました。  当時(とうじ)は電気(でんき)も無()くローソクで部屋(へや)を明(あか)るくしていました。坂東(ばんどう)さん、鈴木(すずき)さん夫妻(ふさい)、本田(ほんだ)さん、栃沢(とちさわ)さん、中島(なかじま)さん方(かた)が集(あつ)まっていました。司会者(しかいしゃ)が賛(さん)美歌(びか)を導(みちび)き、祈(いの)りをし、聖書(せいしょ)のお話(はなし)がされました。お話(はなし)はなにやら良()く分()からなかったのですが、集(つど)いの後(あと)にお交(まじ)わりで打()ち解()けて、緊張(きんちょう)がほぐれました。集会(しゅうかい)が終()わってから、帰(かえ)りがけに聖書(せいしょ)と聖歌(せいか)を求(もと)めました。

 

結婚(けっこん)、そして、

()からない中(なか)でも、日曜日(にちようび)になると礼拝(れいはい)に出席(しゅっせき)し、信仰(しんこう)が理解(りかい)できるよう精一杯励(せいいっぱいはげ)みました。1960年(ねん)、家内(かない)も与(あた)えられました。当時家内(とうじかない)は、別(べつ)の信仰(しんこう)を持()っていましたが、イエス様(さま)を信(しん)じて共(とも)に生()きるように変()えられていきました。

(とも)に野菜(やさい)つくりをし、フェイラ((あお)空市場(そらいちば))で売()ったりもしていました。

 

異国(いこく)の地(ち)に来(き)て

異国(いこく)の地()に来()て、一番頼(いちばんたよ)れる方(かた)が自()(ぶん)の大切(たいせつ)な隣人(となりびと)、引()き受()け主(しゅ)でありましたのが幸(さいわ)いして、イエス様(さま)を救(すく)い主(ぬし)として信じ、自分(じぶん)の生涯(しょうがい)をお委(ゆだ)ねました。1967年頃(ねんごろ)でした。教(きょう)(かい)が歩(ある)いて5分(ぷん)くらいの近(ちか)さであったので、礼拝(れいはい)に出席(しゅっせき)できたのだと思(おも)います。

 
神(かみ)の国(くに)と神(かみ)の義(ぎ)を求(もと)めて

聖書(せいしょ)のお話(はなし)も少(すこ)しづつ、理解(りかい)でき、1年後(ねんご)にサウーデ教会(きょうかい)で洗礼(せんれい)に預(あず)かることになりました。小(ちい)さなものの日々(ひび)の祈(いの)りをも、主(しゅ)イエス様(さま)は聞()き届(とど)け、小(ちい)さい罪(つみ)や汚(よご)れも赦(ゆる)し清(きよ)めて下(くだ)さいます。日々聖書(ひびせいしょ)のお言葉(ことば)に励(はげ)まされ、信仰(しんこう)を励(はげ)んできました。

 まず、神(かみ)の国(くに)と神(かみ)の義()を求(もと)めなさい。そうすればそれらのものは全(すべ)て添()えて与(あた)えられます。(マタイの福音書(ふくいんしょ)6:33)

 
熟年(じゅくねん)の今(いま)は・・・

子供(こども)も5人与(  にんあた)えられ、皆元気(みなげんき)で成長(せいちょう)しました。そして各々家庭(おのおのかてい)を持()つようになり、息子(むすこ)たちも皆(みな)、教会(きょうかい)に通(かよ)うよい、信仰(しんこう)に励(はげ)んでいます。(自由(じゆう)メソジスト、エンブーラ

教会会員(きょうかいかいいん)

 

 

 

 

 (おっと)のために家(いえ)を建()てよう    渡辺(わたなべ) ソノ  

 

 
結婚(けっこん)、渡伯(わたるはく)

   1908年5月7日(ねん がつ  か)、千葉県佐原市(ちばけんさわらし)()まれ。東京(とうきょう)の女学校(じょがっこう)(ミッションスクール)で学(まな)んでいたとき、洗礼(せんれい)を受()けました。その後()、千葉県(ちばけん)で、助産(じょさん)()養成学校(ようせいがっこう)で学(まな)び、卒業(そつぎょう)。あるときブラジル移民(いみん)の募集(ぼしゅう)を知()り、ちょうど同(おな)じ目的(もくてき)を持()った渡辺健一郎(わたなべけんいちろう)と結婚(けっこん)、1932年(ねん)渡伯(とはく)。健一郎(けんいちろう)もクリスチャンでした。

 
夫(おっと)にがん宣告(せんこく)

    パラグァス・パウリスタに入(はい)り、農(のう)(ぎょう)を始(はじ)めました。その後()、パットデミナス、ポルトアレグレ、その他()に移(うつ)り住()みました。ミナス州(しゅう)のカダンダイでバラ作(づく)りを始(はじ)めました。

しかし、その頃主人(ころしゅじん)の健一郎(けんいちろう)が胃()がんの宣告(せんこく)を受()けたのです。

 
家(いえ)を建(た)てると宣言(せんげん)

    そのとき、それまで自分(じぶん)たちの家(いえ)を持()ったことが無()かったので、夫(おっと)のために家(いえ)を建()てることを決意(けつい)し、土地(とち)を買()いました。 自(みずか)ら建築(けんちく)の指図(さしず)をし、七ヶ月(げつ)のうちに建()て終()わったのです。大(おお)きな家(いえ)でした。健一郎(けんいちろう)はこの家(いえ)に2ヶ月住(げつす)んで亡()くなりました。

 
子供(こども)たちのために

    牧師夫人(ぼくしふじん)の八重子先生(やえこせんせい)は、次(つぎ)のようにソノさんのことを語(かた)っています。

 ソノさんは六人(ろくにん)の子供(こども)たちを教育(きょういく)するために一生懸命働(いっしょうけんめいばたら)き、皆(みな)それぞれ立派(りっぱ)に教育(きょういく)をうけさせ、独立(どくりつ)して行()きました。一人(ひとり)は陸軍大佐(りくぐんたいさ)、一人(ひとり)は弁護士(べんごし)といった具合(ぐあい)にです。

 

日本語(にほんご)の礼拝(れいはい)に

    1987年(ねん)、親戚(しんせき)の方(かた)のお葬式(そうしき)の時(とき)に、ホーリネス教会(きょうかい)の梶典之(かじのりゆき)・啓子(けいこ)さんと出会(であ)い、日本語(にほんご)で礼拝(れいはい)しているから来()られませんと誘(さそ)われました。しかし、自分(じぶん)は長(なが)いこと教会(きょうかい)に行()っていないから行()く資格(しかく)がないと辞退(じたい)なさいました。

 ある時日本(ときにほん)から来()ていた松本(まつもと)牧師(ぼくし)が訪問(ほうもん)してお話(はなし)した。それ以降(いこう)出席(しゅっせき)するようになったのです。

 
教会生活(きょうかいせいかつ)を楽(たの)しむ

教会(きょうかい)の草取(くさと)りをしたり、新任(しんにん)の牧師(ぼくし)と一緒(いっしょ)に市内(しない)のみならず、50キロ、100キロの訪問(ほうもん)をしたり、教会(きょうかい)(せい)(かつ)を楽(たの)しんだ。

1999年頃(ねんごろ)から、老(ろう)(じん)ホームに、自分(じぶん)から希望(きぼう)して入(はい)りました。そこから毎週日曜日(まいしゅうにちようび)と水曜日(すいようび)の集会(しゅうかい)には必(かなら)ず出席(しゅっせき)していた。だんだん足(あし)が弱(よわ)ってきて、ホームから出()られなくなったのですが、教会(きょうかい)から誰(だれ)か見舞(みま)いに行()くと、とても喜(よろこ)んでくださったのでした。

愛唱聖歌(あいしょうせいか)は623番(ばん)「いつかは、知()らねど」2004年3月28日召天(ねん  がつ   にちしょうてん)。95歳(さい)でありました。(福音(ふくいん)ホーリネス、ベロ・オリゾンテ教会天国(きょうかいてんごく)会員(かいいん)

 

 

    



聖書(せいしょ)に価値(かち)が無()かったら

 


 ある時(とき)、一人(ひとり)の白人(はくじん)がアフリカに商売(しょうばい)に行()きました。そして、一人(ひとり)の黒人(こくじん)が、木下(きのした)で聖書(せいしょ)を読()んでいるのを見()つけました。

 そこで黒人(こくじん)に向()かって笑(わら)いながら「この本(ほん)は、アメリカではもう古(ふる)い本(ほん)になってしまって、何(なん)にも価値(かち)が無()い本(ほん)なのです。」と言()いました。

 その黒人(こくじん)は、その白人(はくじん)をじっと見()つめて、自分(じぶん)の指(ゆび)を、黒人自身(こくじんじしん)のお腹(なか)に指()しながら、言()いました。

「この本(ほん)に価値(かち)が無()いとしたら、貴方(あなた)はもうとっくに、私(わたし)のお腹(なか)の中(なか)に入(はい)っていましたよ」と。

かつては彼(かれ)らは、人食(ひとく)い人種(じんしゅ)だったのです。

聖書(せいしょ)は今(いま)でも、価値(かち)があり、人間(にんげん)を新(あたら)しくする力(ちから)が、あるのです。 貴方(あなた)も、聖書(せいしょ)を読()んでみませんか。

 

 

 

 

 

この読み物は無料です。

 

 

 

 

 

 

エホバの証人、モルモン教とは関係ありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


トラクト6号をお送りいたします。

 

 今回のトラクト。

 今回は三浦兄と渡辺姉の証しを掲載させていただきました。

日系人伝道は、訪問と児童伝道です。訪問すると燃やされます。全くこの一般社会に接していないと、キリスト様の失われた人々を追う心が欠けてきます。一人でも多くの教会の兄姉が訪問に参加して欲しいものです。訪問していると不思議にも説教も祝されます。多分、人々の心が自然に分かってくるからでしょう。

 

一口メッセージ。

 今回は、初めて、一口メッセージも入れてみました、いかがでしょうか。これからも出来るだけ入れていければと思います。

 次回はルーテル教会の姉妹とホザナ・ジャバクアラ教会の兄弟の証しがトラクトに掲載される予定です。証しをくださいました兄姉に感謝です。



北パラナ,聖州奥地訪問。

10月中旬に、北パラナとサンパウロ州奥地に参ります。かの地でもよい働きがなされています。お口の働きのためにもお祈り下さい。

 

もう一つの日系人伝道。地域とのコンタクト作り。

 日本語学級を開きましょう。

 

 教会周辺のご家庭のために、幼稚園なり、日本語学級を始めてみませんか。目下、幾つかの県人会と協力して、入門・初級の日本語クラスを起こしています。皆様の教会でも始められるご希望がありましたら、教師養成講座を開きます。遊びながら日本語を覚える方法です。

 私共も、9月からサンパウロに移りますので、日系人伝道のために、出来るだけご一緒に学び、励んでいけたらと願っております。

  香川県人会で、初めて日本語入門科を始めます。会話中心で、読み書きは殆どしませんが、漫画教科書で楽しく学びます。皆様の教会でも、是非始めてみてくだ さい。地域とのコンタクトを作るチャンスです。訪問のさしあげる文書の中に、日本語の案内も入れてみてください。何とか地域社会に使える道を探しましょ う。

 

中田智之・宣子は、サンパウロに引越しします。

 今まで、サンパウロでは香川県人会に留まっておりましたが、リベルダーデが何かと便利なので、援護協会に近い、宮城県人会にしばらく泊まります。そして、日本人伝道の具体的なことを皆様と祈りながら、進めることが出来ましたらと願っております。よろしくお願いいたします。

 

皆様の上に、神様の祝福を祈りまして     中田智之   20059