家族同様(かぞくどうよう)の暖(あたた)かさで 三浦(みうら)清春(きよはる)
コチア単独青年移民(たんどくせいねんいみん)
神奈川県(かながわけん)より、ブラジルコチア単独(たんどく)青年移民(せいねんいみん)として、1956年(ねん)11月(がつ)に入国(にゅうこく)。コチア農業協同組合(のうぎょうきょうどうくみあい)の農業(のうぎょう)移民(いみん)として6ヶ月好意(げつこうい)で、農業者家庭(のうぎょうしゃかてい)での訓練(くんれん)を受(う)けました。それから、他(た)の農(のう)家(か)へ移(うつ)ります。
それで私(わたし)は、サンタマーロの奥(おく)のエンブーラ部落(ぶらく)に来(き)たのでした。
ローソクの明(あ)かりの中(なか)で
エンブーラ部落(ぶらく)に来(き)てお世話(せわ)になった農家(のうか)が、今(いま)は亡(な)き坂東(ばんどう)さんでした。そこでは家族同様(かぞくどうよう)な生活(せいかつ)が始(はじ)まったのです。
この家(いえ)の皆(みな)さんはキリスト教(きょう)の信(しん)
者(じゃ)でしたので家族(かぞく)の皆(みな)さんによって教会(きょうかい)に行(い)くように勧(すす)められました。
それである夜(よる)の集会(しゅうかい)に行(い)きました。 当時(とうじ)は電気(でんき)も無(な)くローソクで部屋(へや)を明(あか)るくしていました。坂東(ばんどう)さん、鈴木(すずき)さん夫妻(ふさい)、本田(ほんだ)さん、栃沢(とちさわ)さん、中島(なかじま)さん方(かた)が集(あつ)まっていました。司会者(しかいしゃ)が賛(さん)美歌(びか)を導(みちび)き、祈(いの)りをし、聖書(せいしょ)のお話(はなし)がされました。お話(はなし)はなにやら良(よ)く分(わ)からなかったのですが、集(つど)いの後(あと)にお交(まじ)わりで打(う)ち解(と)けて、緊張(きんちょう)がほぐれました。集会(しゅうかい)が終(お)わってから、帰(かえ)りがけに聖書(せいしょ)と聖歌(せいか)を求(もと)めました。
結婚(けっこん)、そして、
分(わ)からない中(なか)でも、日曜日(にちようび)になると礼拝(れいはい)に出席(しゅっせき)し、信仰(しんこう)が理解(りかい)できるよう精一杯励(せいいっぱいはげ)みました。1960年(ねん)、家内(かない)も与(あた)えられました。当時家内(とうじかない)は、別(べつ)の信仰(しんこう)を持(も)っていましたが、イエス様(さま)を信(しん)じて共(とも)に生(い)きるように変(か)えられていきました。
共(とも)に野菜(やさい)つくりをし、フェイラ(青(あお)空市場(そらいちば))で売(う)ったりもしていました。
異国(いこく)の地(ち)に来(き)て
異国(いこく)の地(ち)に来(き)て、一番頼(いちばんたよ)れる方(かた)が自(じ)分(ぶん)の大切(たいせつ)な隣人(となりびと)、引(ひ)き受(う)け主(しゅ)でありましたのが幸(さいわ)いして、イエス様(さま)を救(すく)い主(ぬし)として信じ、自分(じぶん)の生涯(しょうがい)をお委(ゆだ)ねました。1967年頃(ねんごろ)でした。教(きょう)会(かい)が歩(ある)いて5分(ぷん)くらいの近(ちか)さであったので、礼拝(れいはい)に出席(しゅっせき)できたのだと思(おも)います。
神(かみ)の国(くに)と神(かみ)の義(ぎ)を求(もと)めて
聖書(せいしょ)のお話(はなし)も少(すこ)しづつ、理解(りかい)でき、1年後(ねんご)にサウーデ教会(きょうかい)で洗礼(せんれい)に預(あず)かることになりました。小(ちい)さなものの日々(ひび)の祈(いの)りをも、主(しゅ)イエス様(さま)は聞(き)き届(とど)け、小(ちい)さい罪(つみ)や汚(よご)れも赦(ゆる)し清(きよ)めて下(くだ)さいます。日々聖書(ひびせいしょ)のお言葉(ことば)に励(はげ)まされ、信仰(しんこう)を励(はげ)んできました。
まず、神(かみ)の国(くに)と神(かみ)の義(ぎ)を求(もと)めなさい。そうすればそれらのものは全(すべ)て添(そ)えて与(あた)えられます。(マタイの福音書(ふくいんしょ)6:33)
熟年(じゅくねん)の今(いま)は・・・
子供(こども)も5人与( にんあた)えられ、皆元気(みなげんき)で成長(せいちょう)しました。そして各々家庭(おのおのかてい)を持(も)つようになり、息子(むすこ)たちも皆(みな)、教会(きょうかい)に通(かよ)うよい、信仰(しんこう)に励(はげ)んでいます。(自由(じゆう)メソジスト、エンブーラ
教会会員(きょうかいかいいん))
夫(おっと)のために家(いえ)を建(た)てよう 渡辺(わたなべ) ソノ
結婚(けっこん)、渡伯(わたるはく)
1908年5月7日(ねん がつ か)、千葉県佐原市(ちばけんさわらし)生(う)まれ。東京(とうきょう)の女学校(じょがっこう)(ミッションスクール)で学(まな)んでいたとき、洗礼(せんれい)を受(う)けました。その後(ご)、千葉県(ちばけん)で、助産(じょさん)婦(ぷ)養成学校(ようせいがっこう)で学(まな)び、卒業(そつぎょう)。あるときブラジル移民(いみん)の募集(ぼしゅう)を知(し)り、ちょうど同(おな)じ目的(もくてき)を持(も)った渡辺健一郎(わたなべけんいちろう)と結婚(けっこん)、1932年(ねん)渡伯(とはく)。健一郎(けんいちろう)もクリスチャンでした。
夫(おっと)にがん宣告(せんこく)
パラグァス・パウリスタに入(はい)り、農(のう)業(ぎょう)を始(はじ)めました。その後(ご)、パットデミナス、ポルトアレグレ、その他(た)に移(うつ)り住(す)みました。ミナス州(しゅう)のカダンダイでバラ作(づく)りを始(はじ)めました。
しかし、その頃主人(ころしゅじん)の健一郎(けんいちろう)が胃(い)がんの宣告(せんこく)を受(う)けたのです。
家(いえ)を建(た)てると宣言(せんげん)
そのとき、それまで自分(じぶん)たちの家(いえ)を持(も)ったことが無(な)かったので、夫(おっと)のために家(いえ)を建(た)てることを決意(けつい)し、土地(とち)を買(か)いました。 自(みずか)ら建築(けんちく)の指図(さしず)をし、七ヶ月(げつ)のうちに建(た)て終(お)わったのです。大(おお)きな家(いえ)でした。健一郎(けんいちろう)はこの家(いえ)に2ヶ月住(げつす)んで亡(な)くなりました。
子供(こども)たちのために
牧師夫人(ぼくしふじん)の八重子先生(やえこせんせい)は、次(つぎ)のようにソノさんのことを語(かた)っています。
ソノさんは六人(ろくにん)の子供(こども)たちを教育(きょういく)するために一生懸命働(いっしょうけんめいばたら)き、皆(みな)それぞれ立派(りっぱ)に教育(きょういく)をうけさせ、独立(どくりつ)して行(い)きました。一人(ひとり)は陸軍大佐(りくぐんたいさ)、一人(ひとり)は弁護士(べんごし)といった具合(ぐあい)にです。
日本語(にほんご)の礼拝(れいはい)に
1987年(ねん)、親戚(しんせき)の方(かた)のお葬式(そうしき)の時(とき)に、ホーリネス教会(きょうかい)の梶典之(かじのりゆき)・啓子(けいこ)さんと出会(であ)い、日本語(にほんご)で礼拝(れいはい)しているから来(こ)られませんと誘(さそ)われました。しかし、自分(じぶん)は長(なが)いこと教会(きょうかい)に行(い)っていないから行(い)く資格(しかく)がないと辞退(じたい)なさいました。
ある時日本(ときにほん)から来(き)ていた松本(まつもと)牧師(ぼくし)が訪問(ほうもん)してお話(はなし)した。それ以降(いこう)出席(しゅっせき)するようになったのです。
教会生活(きょうかいせいかつ)を楽(たの)しむ
教会(きょうかい)の草取(くさと)りをしたり、新任(しんにん)の牧師(ぼくし)と一緒(いっしょ)に市内(しない)のみならず、50キロ、100キロの訪問(ほうもん)をしたり、教会(きょうかい)生(せい)活(かつ)を楽(たの)しんだ。
1999年頃(ねんごろ)から、老(ろう)人(じん)ホームに、自分(じぶん)から希望(きぼう)して入(はい)りました。そこから毎週日曜日(まいしゅうにちようび)と水曜日(すいようび)の集会(しゅうかい)には必(かなら)ず出席(しゅっせき)していた。だんだん足(あし)が弱(よわ)ってきて、ホームから出(で)られなくなったのですが、教会(きょうかい)から誰(だれ)か見舞(みま)いに行(い)くと、とても喜(よろこ)んでくださったのでした。
愛唱聖歌(あいしょうせいか)は623番(ばん)「いつかは、知(ち)らねど」2004年3月28日召天(ねん がつ にちしょうてん)。95歳(さい)でありました。(福音(ふくいん)ホーリネス、ベロ・オリゾンテ教会天国(きょうかいてんごく)会員(かいいん))
聖書(せいしょ)に価値(かち)が無(な)かったら
ある時(とき)、一人(ひとり)の白人(はくじん)がアフリカに商売(しょうばい)に行(い)きました。そして、一人(ひとり)の黒人(こくじん)が、木下(きのした)で聖書(せいしょ)を読(よ)んでいるのを見(み)つけました。
そこで黒人(こくじん)に向(む)かって笑(わら)いながら「この本(ほん)は、アメリカではもう古(ふる)い本(ほん)になってしまって、何(なん)にも価値(かち)が無(な)い本(ほん)なのです。」と言(い)いました。
その黒人(こくじん)は、その白人(はくじん)をじっと見(み)つめて、自分(じぶん)の指(ゆび)を、黒人自身(こくじんじしん)のお腹(なか)に指(さ)しながら、言(い)いました。
「この本(ほん)に価値(かち)が無(な)いとしたら、貴方(あなた)はもうとっくに、私(わたし)のお腹(なか)の中(なか)に入(はい)っていましたよ」と。
かつては彼(かれ)らは、人食(ひとく)い人種(じんしゅ)だったのです。
聖書(せいしょ)は今(いま)でも、価値(かち)があり、人間(にんげん)を新(あたら)しくする力(ちから)が、あるのです。 貴方(あなた)も、聖書(せいしょ)を読(よ)んでみませんか。
この読み物は無料です。
エホバの証人、モルモン教とは関係ありません。
トラクト6号をお送りいたします。
今回のトラクト。
今回は三浦兄と渡辺姉の証しを掲載させていただきました。
日系人伝道は、訪問と児童伝道です。訪問すると燃やされます。全くこの一般社会に接していないと、キリスト様の失われた人々を追う心が欠けてきます。一人でも多くの教会の兄姉が訪問に参加して欲しいものです。訪問していると不思議にも説教も祝されます。多分、人々の心が自然に分かってくるからでしょう。
一口メッセージ。
今回は、初めて、一口メッセージも入れてみました、いかがでしょうか。これからも出来るだけ入れていければと思います。
次回はルーテル教会の姉妹とホザナ・ジャバクアラ教会の兄弟の証しがトラクトに掲載される予定です。証しをくださいました兄姉に感謝です。
北パラナ,聖州奥地訪問。
10月中旬に、北パラナとサンパウロ州奥地に参ります。かの地でもよい働きがなされています。お口の働きのためにもお祈り下さい。
もう一つの日系人伝道。地域とのコンタクト作り。
日本語学級を開きましょう。
教会周辺のご家庭のために、幼稚園なり、日本語学級を始めてみませんか。目下、幾つかの県人会と協力して、入門・初級の日本語クラスを起こしています。皆様の教会でも始められるご希望がありましたら、教師養成講座を開きます。遊びながら日本語を覚える方法です。
私共も、9月からサンパウロに移りますので、日系人伝道のために、出来るだけご一緒に学び、励んでいけたらと願っております。
香川県人会で、初めて日本語入門科を始めます。会話中心で、読み書きは殆どしませんが、漫画教科書で楽しく学びます。皆様の教会でも、是非始めてみてくだ さい。地域とのコンタクトを作るチャンスです。訪問のさしあげる文書の中に、日本語の案内も入れてみてください。何とか地域社会に使える道を探しましょ う。
中田智之・宣子は、サンパウロに引越しします。
今まで、サンパウロでは香川県人会に留まっておりましたが、リベルダーデが何かと便利なので、援護協会に近い、宮城県人会にしばらく泊まります。そして、日本人伝道の具体的なことを皆様と祈りながら、進めることが出来ましたらと願っております。よろしくお願いいたします。
皆様の上に、神様の祝福を祈りまして 中田智之 2005年9月
コチア単独青年移民(たんどくせいねんいみん)
神奈川県(かながわけん)より、ブラジルコチア単独(たんどく)青年移民(せいねんいみん)として、1956年(ねん)11月(がつ)に入国(にゅうこく)。コチア農業協同組合(のうぎょうきょうどうくみあい)の農業(のうぎょう)移民(いみん)として6ヶ月好意(げつこうい)で、農業者家庭(のうぎょうしゃかてい)での訓練(くんれん)を受(う)けました。それから、他(た)の農(のう)家(か)へ移(うつ)ります。
それで私(わたし)は、サンタマーロの奥(おく)のエンブーラ部落(ぶらく)に来(き)たのでした。
ローソクの明(あ)かりの中(なか)で
エンブーラ部落(ぶらく)に来(き)てお世話(せわ)になった農家(のうか)が、今(いま)は亡(な)き坂東(ばんどう)さんでした。そこでは家族同様(かぞくどうよう)な生活(せいかつ)が始(はじ)まったのです。
この家(いえ)の皆(みな)さんはキリスト教(きょう)の信(しん)
者(じゃ)でしたので家族(かぞく)の皆(みな)さんによって教会(きょうかい)に行(い)くように勧(すす)められました。
それである夜(よる)の集会(しゅうかい)に行(い)きました。 当時(とうじ)は電気(でんき)も無(な)くローソクで部屋(へや)を明(あか)るくしていました。坂東(ばんどう)さん、鈴木(すずき)さん夫妻(ふさい)、本田(ほんだ)さん、栃沢(とちさわ)さん、中島(なかじま)さん方(かた)が集(あつ)まっていました。司会者(しかいしゃ)が賛(さん)美歌(びか)を導(みちび)き、祈(いの)りをし、聖書(せいしょ)のお話(はなし)がされました。お話(はなし)はなにやら良(よ)く分(わ)からなかったのですが、集(つど)いの後(あと)にお交(まじ)わりで打(う)ち解(と)けて、緊張(きんちょう)がほぐれました。集会(しゅうかい)が終(お)わってから、帰(かえ)りがけに聖書(せいしょ)と聖歌(せいか)を求(もと)めました。
結婚(けっこん)、そして、
分(わ)からない中(なか)でも、日曜日(にちようび)になると礼拝(れいはい)に出席(しゅっせき)し、信仰(しんこう)が理解(りかい)できるよう精一杯励(せいいっぱいはげ)みました。1960年(ねん)、家内(かない)も与(あた)えられました。当時家内(とうじかない)は、別(べつ)の信仰(しんこう)を持(も)っていましたが、イエス様(さま)を信(しん)じて共(とも)に生(い)きるように変(か)えられていきました。
共(とも)に野菜(やさい)つくりをし、フェイラ(青(あお)空市場(そらいちば))で売(う)ったりもしていました。
異国(いこく)の地(ち)に来(き)て
異国(いこく)の地(ち)に来(き)て、一番頼(いちばんたよ)れる方(かた)が自(じ)分(ぶん)の大切(たいせつ)な隣人(となりびと)、引(ひ)き受(う)け主(しゅ)でありましたのが幸(さいわ)いして、イエス様(さま)を救(すく)い主(ぬし)として信じ、自分(じぶん)の生涯(しょうがい)をお委(ゆだ)ねました。1967年頃(ねんごろ)でした。教(きょう)会(かい)が歩(ある)いて5分(ぷん)くらいの近(ちか)さであったので、礼拝(れいはい)に出席(しゅっせき)できたのだと思(おも)います。
神(かみ)の国(くに)と神(かみ)の義(ぎ)を求(もと)めて
聖書(せいしょ)のお話(はなし)も少(すこ)しづつ、理解(りかい)でき、1年後(ねんご)にサウーデ教会(きょうかい)で洗礼(せんれい)に預(あず)かることになりました。小(ちい)さなものの日々(ひび)の祈(いの)りをも、主(しゅ)イエス様(さま)は聞(き)き届(とど)け、小(ちい)さい罪(つみ)や汚(よご)れも赦(ゆる)し清(きよ)めて下(くだ)さいます。日々聖書(ひびせいしょ)のお言葉(ことば)に励(はげ)まされ、信仰(しんこう)を励(はげ)んできました。
まず、神(かみ)の国(くに)と神(かみ)の義(ぎ)を求(もと)めなさい。そうすればそれらのものは全(すべ)て添(そ)えて与(あた)えられます。(マタイの福音書(ふくいんしょ)6:33)
熟年(じゅくねん)の今(いま)は・・・
子供(こども)も5人与( にんあた)えられ、皆元気(みなげんき)で成長(せいちょう)しました。そして各々家庭(おのおのかてい)を持(も)つようになり、息子(むすこ)たちも皆(みな)、教会(きょうかい)に通(かよ)うよい、信仰(しんこう)に励(はげ)んでいます。(自由(じゆう)メソジスト、エンブーラ
教会会員(きょうかいかいいん))
夫(おっと)のために家(いえ)を建(た)てよう 渡辺(わたなべ) ソノ
結婚(けっこん)、渡伯(わたるはく)
1908年5月7日(ねん がつ か)、千葉県佐原市(ちばけんさわらし)生(う)まれ。東京(とうきょう)の女学校(じょがっこう)(ミッションスクール)で学(まな)んでいたとき、洗礼(せんれい)を受(う)けました。その後(ご)、千葉県(ちばけん)で、助産(じょさん)婦(ぷ)養成学校(ようせいがっこう)で学(まな)び、卒業(そつぎょう)。あるときブラジル移民(いみん)の募集(ぼしゅう)を知(し)り、ちょうど同(おな)じ目的(もくてき)を持(も)った渡辺健一郎(わたなべけんいちろう)と結婚(けっこん)、1932年(ねん)渡伯(とはく)。健一郎(けんいちろう)もクリスチャンでした。
夫(おっと)にがん宣告(せんこく)
パラグァス・パウリスタに入(はい)り、農(のう)業(ぎょう)を始(はじ)めました。その後(ご)、パットデミナス、ポルトアレグレ、その他(た)に移(うつ)り住(す)みました。ミナス州(しゅう)のカダンダイでバラ作(づく)りを始(はじ)めました。
しかし、その頃主人(ころしゅじん)の健一郎(けんいちろう)が胃(い)がんの宣告(せんこく)を受(う)けたのです。
家(いえ)を建(た)てると宣言(せんげん)
そのとき、それまで自分(じぶん)たちの家(いえ)を持(も)ったことが無(な)かったので、夫(おっと)のために家(いえ)を建(た)てることを決意(けつい)し、土地(とち)を買(か)いました。 自(みずか)ら建築(けんちく)の指図(さしず)をし、七ヶ月(げつ)のうちに建(た)て終(お)わったのです。大(おお)きな家(いえ)でした。健一郎(けんいちろう)はこの家(いえ)に2ヶ月住(げつす)んで亡(な)くなりました。
子供(こども)たちのために
牧師夫人(ぼくしふじん)の八重子先生(やえこせんせい)は、次(つぎ)のようにソノさんのことを語(かた)っています。
ソノさんは六人(ろくにん)の子供(こども)たちを教育(きょういく)するために一生懸命働(いっしょうけんめいばたら)き、皆(みな)それぞれ立派(りっぱ)に教育(きょういく)をうけさせ、独立(どくりつ)して行(い)きました。一人(ひとり)は陸軍大佐(りくぐんたいさ)、一人(ひとり)は弁護士(べんごし)といった具合(ぐあい)にです。
日本語(にほんご)の礼拝(れいはい)に
1987年(ねん)、親戚(しんせき)の方(かた)のお葬式(そうしき)の時(とき)に、ホーリネス教会(きょうかい)の梶典之(かじのりゆき)・啓子(けいこ)さんと出会(であ)い、日本語(にほんご)で礼拝(れいはい)しているから来(こ)られませんと誘(さそ)われました。しかし、自分(じぶん)は長(なが)いこと教会(きょうかい)に行(い)っていないから行(い)く資格(しかく)がないと辞退(じたい)なさいました。
ある時日本(ときにほん)から来(き)ていた松本(まつもと)牧師(ぼくし)が訪問(ほうもん)してお話(はなし)した。それ以降(いこう)出席(しゅっせき)するようになったのです。
教会生活(きょうかいせいかつ)を楽(たの)しむ
教会(きょうかい)の草取(くさと)りをしたり、新任(しんにん)の牧師(ぼくし)と一緒(いっしょ)に市内(しない)のみならず、50キロ、100キロの訪問(ほうもん)をしたり、教会(きょうかい)生(せい)活(かつ)を楽(たの)しんだ。
1999年頃(ねんごろ)から、老(ろう)人(じん)ホームに、自分(じぶん)から希望(きぼう)して入(はい)りました。そこから毎週日曜日(まいしゅうにちようび)と水曜日(すいようび)の集会(しゅうかい)には必(かなら)ず出席(しゅっせき)していた。だんだん足(あし)が弱(よわ)ってきて、ホームから出(で)られなくなったのですが、教会(きょうかい)から誰(だれ)か見舞(みま)いに行(い)くと、とても喜(よろこ)んでくださったのでした。
愛唱聖歌(あいしょうせいか)は623番(ばん)「いつかは、知(ち)らねど」2004年3月28日召天(ねん がつ にちしょうてん)。95歳(さい)でありました。(福音(ふくいん)ホーリネス、ベロ・オリゾンテ教会天国(きょうかいてんごく)会員(かいいん))
聖書(せいしょ)に価値(かち)が無(な)かったら
ある時(とき)、一人(ひとり)の白人(はくじん)がアフリカに商売(しょうばい)に行(い)きました。そして、一人(ひとり)の黒人(こくじん)が、木下(きのした)で聖書(せいしょ)を読(よ)んでいるのを見(み)つけました。
そこで黒人(こくじん)に向(む)かって笑(わら)いながら「この本(ほん)は、アメリカではもう古(ふる)い本(ほん)になってしまって、何(なん)にも価値(かち)が無(な)い本(ほん)なのです。」と言(い)いました。
その黒人(こくじん)は、その白人(はくじん)をじっと見(み)つめて、自分(じぶん)の指(ゆび)を、黒人自身(こくじんじしん)のお腹(なか)に指(さ)しながら、言(い)いました。
「この本(ほん)に価値(かち)が無(な)いとしたら、貴方(あなた)はもうとっくに、私(わたし)のお腹(なか)の中(なか)に入(はい)っていましたよ」と。
かつては彼(かれ)らは、人食(ひとく)い人種(じんしゅ)だったのです。
聖書(せいしょ)は今(いま)でも、価値(かち)があり、人間(にんげん)を新(あたら)しくする力(ちから)が、あるのです。 貴方(あなた)も、聖書(せいしょ)を読(よ)んでみませんか。
この読み物は無料です。
エホバの証人、モルモン教とは関係ありません。
トラクト6号をお送りいたします。
今回のトラクト。
今回は三浦兄と渡辺姉の証しを掲載させていただきました。
日系人伝道は、訪問と児童伝道です。訪問すると燃やされます。全くこの一般社会に接していないと、キリスト様の失われた人々を追う心が欠けてきます。一人でも多くの教会の兄姉が訪問に参加して欲しいものです。訪問していると不思議にも説教も祝されます。多分、人々の心が自然に分かってくるからでしょう。
一口メッセージ。
今回は、初めて、一口メッセージも入れてみました、いかがでしょうか。これからも出来るだけ入れていければと思います。
次回はルーテル教会の姉妹とホザナ・ジャバクアラ教会の兄弟の証しがトラクトに掲載される予定です。証しをくださいました兄姉に感謝です。
北パラナ,聖州奥地訪問。
10月中旬に、北パラナとサンパウロ州奥地に参ります。かの地でもよい働きがなされています。お口の働きのためにもお祈り下さい。
もう一つの日系人伝道。地域とのコンタクト作り。
日本語学級を開きましょう。
教会周辺のご家庭のために、幼稚園なり、日本語学級を始めてみませんか。目下、幾つかの県人会と協力して、入門・初級の日本語クラスを起こしています。皆様の教会でも始められるご希望がありましたら、教師養成講座を開きます。遊びながら日本語を覚える方法です。
私共も、9月からサンパウロに移りますので、日系人伝道のために、出来るだけご一緒に学び、励んでいけたらと願っております。
香川県人会で、初めて日本語入門科を始めます。会話中心で、読み書きは殆どしませんが、漫画教科書で楽しく学びます。皆様の教会でも、是非始めてみてくだ さい。地域とのコンタクトを作るチャンスです。訪問のさしあげる文書の中に、日本語の案内も入れてみてください。何とか地域社会に使える道を探しましょ う。
中田智之・宣子は、サンパウロに引越しします。
今まで、サンパウロでは香川県人会に留まっておりましたが、リベルダーデが何かと便利なので、援護協会に近い、宮城県人会にしばらく泊まります。そして、日本人伝道の具体的なことを皆様と祈りながら、進めることが出来ましたらと願っております。よろしくお願いいたします。
皆様の上に、神様の祝福を祈りまして 中田智之 2005年9月