「日本人伝道ノート(II)」
マナウス教会の幼稚園で左から、森本、稲葉、中田。

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Q9.日本人がイエス・キリスト
   を
 自分の救い主と信じてから
主の弟子と
      なるまでに、
  なぜ10年、20年かかると
      言うのですか。
                    

 ①
   集団依存型の生活様式と神信仰

 日本の生活風土の中には、一神教という言葉はあってもその種の信仰はない。
多くの神々の中のひとつとしての一神教が存在しているのみであります。

 日本人にとっての最も影響を与えている信仰的現実は、村の声、周囲の雰囲気、社会慣習である。しかし、それに疲れ、消極的無視を示して脱風土、脱社会を実行し
意識的無意識的に脱出しようとするとき、大きな圧力を家庭から、地域社会から、職場社会から離脱者は感じる。自分の選んだ新しい立場・教会に定着するまでの不安定なときがかかる。

   これを克服するために、日本の社会はどのような社会なのか、そこで信仰を持つということはどんなに高価で、しかも、戦いの覚悟と忍耐が必要であることを自覚してもらうのです。ある場合には、同じくらいの年齢で社会的にも同じような信仰の先輩の失敗談(これを強調します。成功談は殆ど役立ちません。)も必要です。
 

 ②  
帰属性への時間

 日本人はそれほど早く新しい社会に飛び込めるほどの性質を持っているとは思われません。また、周囲の社会からの独立は、なおさらに大変です。最低でも1年間の所属化への時間とプログラムは教会にとって必要です。個人的にこのことに対処するよりもグループのほうが性格のあった人との選択が生まれ、求道者にもっと教会に早く親しんでいただけましょう。例えば教会内の趣味グループとか、地域家庭集会など。年齢的に若い方の場合には、学生会や、奉仕グループなど。もちろん、開拓教会には、それふさわしい人材がいるとは限りません。比較的若い方でしたら、次のことを提案いたします。

 ③
   新人クリスチャンはまず、大変突然の提案ですが教会学校の教師になるのが一番よろしい。

 教会学校の奉仕グループは、適度に活動的、適度に聖書の学び、子供たちへの祈り、その対象者への適度の献身、そして、グループ意識を育てます。私も「ザアカイ」というところを「ザカイア」と言って紙芝居をしてしまったこともありました。教会学校の分校でしたが、5,6人のグループでよく学び、よく
子供たちと遊び、教師みなで祈り、緊張した心で奉仕し、終わってから子供たちの家まで送りに行ったものでした。

  ④   学生伝道の場合
 ・蛇足1.「卒業クリスチャン」はノンクリスチャンとは違います。

 高校生でも大学生でも、時間的余裕が一般社会人よもありましょう。その時間を使って、聖書の学びや賛美の時などがあり、主イエス様を信じるまで進む学生たちも多いのです。しかし、学生たちは、学校や集会などのほうが教会よりも楽しかったりして、教会生活に親しむ時間がなく、卒業を迎えます。ここに問題が出ます。

 しかし、一度福音に接した人とそうでない人とでは、イエスキリスト様への関心度、知的レベルの高さ、キリスト教への理解度に大きな前進があります。一般の人々の福音レベルと遥かに違います。そう夕日とはそう夕日とは反って難しいと思いましょうか、ミッションスクールで学んだ人にもその傾向がありますが、そこが忍耐です。
   聞かせることより聞くこと、兎に角、言ってもらってしまうこと、反発したり、文句を言ったりしないでください。日本の社会ではこの種の人々が物凄く福音宣教には大切なのです。聞くだけでもう信仰の入り口に達している人々なのですから。短期は損気です。

 ところが外国から来た白人宣教師には、この問題が少ないのです。白人宣教師から個人伝道されて、そんなに反発しないでイエス様を救い主と信じる方は少なくありません。しかし、それを見て、日本人が同じことをすくと手酷い結果が待っています。
 「白人宣教師は、日本人の気持ちを分からないで、熱心に聖書の話をしてくれた。しかし、あなたは日本人ではないか、何故、私の気持ちや考えを理解しようとしないで、頭ごなしで厚かましく、お説教するのか」と。

 
日本の個人伝道では、いわゆる、相手を自分のペースに巻き込むことより、相手の話を聞くことが、100倍も大切なのです。

 私の場合は,Hi-BA(高校生聖書伝道協会)に3年生になって参加しました。既に、クリスチャンとなって活躍していた高校生たちがキラキラと輝いて見えました。夏のキャンプでイエス様を救い主、人生の主として信じ、受け入れました。
   幸いにして、行った教会は子供たちへの伝道に活発で、すぐに、自分の居場所が見つかりました。教会の外でもやっていた土曜学校から声がかかったのです。これが、私の確かに神様が与えてくださった教会の居場所だったのです。

 そのグループが、私に聖書を読ませ、聖書から子供たちに語らせ、子供たちのために祈らせ、その教師の兄弟姉妹の交わりを、伝道を通して与えられたのでした。そこで、卒業クリスチャンと辛うじて呼ばれない信仰者に育てられたのです。
  でも、それでも、5,6年かかったと思います、信仰が安定するのに。まったくの神様の恵みでした。でも、 卒業クリスチャンを脱クリスチャンなどとと思わないで、 話を聞いてあげてください。


 ⑤   キリスト教信仰の生活化への時間

  日本でキリスト信仰を持つ場合では、非キリスト教の世界で神様を信じることになり、それが、その人を日常生活まで信仰者へと導かれるためには、かなりの時間と配慮と祈りが必要です。これがキリスト教国の実践神学には抜けていることです。
   これが、洗礼を受けて3分の2の方が教会から脱落する主な原因です。そこに受洗後クラスが必要とされる理由があるのです。あまり早く放置しすぎか、生活化までの時間的経験に至っていないかなのです。

 キリスト教国で洗礼を受けるのは、キリスト教レベルで言えば、中学入学程度です。ところが非キリスト教国日本では、幼稚園入園と考えて十分です。知的レベルの高い日本で、外国宣教師は幻惑されているのです、先進国と同じ高い文化レベルを持っているのだと。レベルは同じでも、内容はまったく違っているのです。


 ⑥   信仰決心、即、洗礼はキリスト教国OK,日本の環境では困難が多い

  私の親しい元ロスアンゼルスの伝道熱心な牧師が、私はイエス様を信じます、と言ったらすぐに洗礼を授けますよ、と言われる。ロスにはそれを許す、少なくとも2つの大きな条件があるように思われます。

  一つは、アメリカには、キリスト教のバックグランドが強力にあります。社会がクリスチャンを普通に受け入れる素地があるのです。

  二つ目は、キリストを受け入れる人の側です。アメリカに来たのだから、クリスチャンになっても良い、と言う気持ちです。自分の心にも、周りの人々にも気を使う必要が、日本にいるときよりもはるかに少ないものです。
  しかし、その友人牧師の家に泊まって、実に驚きました。ほとんど毎日のように、誰かとカンセリングしたり、家で聖書の学びやお茶を飲んだり、食事をしたりして、信仰のフォローをしているのでした。すぐバプテスマを授けていても、そのあとのフォローはちゃんとなさっていたのでした。

 しかし、日本社会では、その二つの上記の条件はありません。日本社会にそれがあれば外国でクリスチャンになった方が日本へ帰られても大きな問題は無いわけです。

 ちなみに、イエスをキリストと受け入れる、即、洗礼の例として挙げられる聖書箇所の一つは、エチオピアの宦官の例ですが、彼は、イザヤ53章を読んでいました。しかも、故国から遥かに遠くエルサレム礼拝からの帰りです。日本人で果たして何人の信仰決心者が、イザヤ書53章を分からないといっても、声を出して読んでいましょうか。
ぜひ、早く、そんな社会に成って頂きたいのですが…

  ある実践神学の強い神学校の先生が、是非、春日井教会を訪ねたいと言われ礼拝のご用をして下さいました。
昼食の時には、この先生は、受洗クラスにいる姉妹の洗礼について、
 「中田先生! すぐ、洗礼を受けさせるべきです」
と、皆の前で言われるのです。しかし、それは、教会と役員会とが決めることで、常識的には、責任牧師と個人的にお話なさることなのです。
 「先生、これは、教会の慣わしで、これが、この教会で今までなされて来たことです。」と申し上げ、了承をいただきました。

 説教の中では、南米やアフリカでは死人がよみがえっていると言われるのです。こう言われますと私も南米には40年ほど居りまして、結構、熱狂的な牧師とも友達ですが、一人も死人が甦ったということを聞いていません。

  三つ目か四つ目かの開拓で、500人くらいの会衆のいる聖霊派教会の友人の牧師は、ラジオ放送でよく言っています「病が癒されたとか見えるようになったとか、足が立てるようになったとか言う経験をなさった方は、お便りください」と。
 彼に、いやみ交じりに、言いました。
 「あなたのグループだけでも何十万人といるんだから、ラジオで言わないでも、十分、毎日放送しても、仕切れないほどいるでしょう、そんな人たちが…」と
 笑ってましたが。 でも流石に、死から甦った人、ご連絡くださいとは、アナウンスしていません。

 ただしです。この2010年終わりに、南アフリカから伝道者会議に出席して戻ってきたブラジル・サンパウロの親しい牧師は、アフリカの伝道者が、死者の甦りに何度か立ち会っていると会議で発言していたと報告してくれました。 

 アフリカを見たことがないので何とも考える土台がありませんが、一つには、そのレポートをくれた牧師は、知的にも経験的にも、十分に豊かさを備えた牧師で、聖霊派の傾向はほとんど無い福音主義の仲間です。

もう一つ、この死者の甦りに関して個人的に思う感想は、こうです。キリストの福音に“かなりの関心を持った”「未文明化社会」では、使徒時代と同じことが起きる可能性がある、と言えるかも知れないという事です。一方、日本は残念ながら、福音にそれほど“関心を持たない”「文明化社会」であると考えられます。

   ラテンアメリカでも、死者の甦りは、四半世紀に一度くらいは起きているかも知れませんが、今のTV,情報化時代に、それこそ猛烈なセンセーションを巻き起こしましょうし、私のこの40年以上のブラジルでの生活で、一度もこのケースにぶつかっていません。
   勿論、私の無知と信仰の不足を曝け出していますが。




Q10.日本人教会では、
       中教会が良いのでしょうか、
       大教会はどうでしょうか。


 

 ①    日本人の精神構造の問題

     ブラジルで一番大きな新教の教会は、マナウスの7,000
人教会かも知れません。まるでローマのコロセウムのようです。
  アマゾン川中域のサンターレンでは、
600
近いセルグループを持つ教会もあります。

    
ご承知のように、ブラジルでは、ペンテコステ系の教会が、人数的には教会員を急速に増やしています。勿論、長老派、バ プテスト派、 聖潔派、その他の教派も順調に、活発に拡大しています。しかし、大教会となると圧倒的に聖霊のバプテスマ、 癒し、異言を強調する聖霊派が多いのです。

     底辺層が半数以上の人口を占める人々にとっては、体の具合が悪ければ、即,食べていけない状況です。無料の医療機関は、早朝から長い列。日雇いの父親の仕事、洗濯や他の家の掃除や子守で日銭をもらう母親、道端で新聞売りや靴磨き、交差点の信号待ちをする車のフロントガラスを洗う子供たち、中心地の道路へ駐車する車の番をする青年たち。
    これで 、一家がその日その日を生きているのです。かれらにとっては、直ぐ聞かれる祈り、大声で必死に祈りたいのです。
  少しでも、家計に余裕が欲しい。その日のパンとミルクが欲しい。子供に鉛筆をノートを買ってあげたい。
    確かに、ご利益信仰かも知れませんが、ラクダが針の穴を通れなくても、彼らは入れるでしょう。

  マナウス時代、日本人日系人を探して新しい町の中へ入っていったときの経験です。そこに、教会を見つけました。フォースクエアーの教会です。牧師が丁度いまして、挨拶をしに行きました。
 「最近の教会はどうですか」
 「発展がストップです、減ってきています」
 「何故ですか」
 「考えられることはただ一つ、沢山来ていたが、私たちは何を信じているのか学ぶ必要を感じ、教理研究を始めてからです」
と。
 ザルで水をすくっているような伝道でも、ペンテコステ派は、やっぱりペンテコステ派らしい異言と癒しと聖霊のバプテスマを強調しないと成り立たない状況のようです。勿論、その地域はスラムに近い状況なのです。知的に物事を理解なさるよりも、その日の問題をイエス様がというより聖霊様が、即、癒してくれることが大切なのです。


  もう少し聖書からイエス様を学びたい方々は、バプテスト教会とか長老教会とかに移っていくのです。蛇足でした。

    一方、ブラジルの日系キリスト教会には、ホーリネス、自由メソジスト教会がそれぞれ
20箇所以上、ホサナ福音、アライアンスが7,8教会、その他は一つ二つづつほど。面白いことに、アッセンブリー教会はただ一つ、ペンテコステ教会を唱える日系教会は、私に知る範囲で、はありません。カトリック派は、大体、日系人の30%です。

   戦前から伝道者を派遣していたホーリネス、自由メソジストが圧倒的に多いのです。ウエスレー・アルメニアン系の教会が サンパウロにも、奥地にも多大な犠牲を払って、キリストの福音を日系コロニアに伝え、聖潔を強調して戦ってきました。

    戦前の移民は、棄民でした。マラリヤで赤痢で黄熱病などで移住地の80%ほどが病に陥り、葬儀を出せる人がいなくなる ほどでした。そのような中で日本からの宣教者がキリストを宣べ伝え多くの人々をキリスト様にお導きしたのでした。

  ローマ時代に被征服者たちの惨めさは確かにキリストを受け入れる素地ができていたと言えます。不幸や貧困はけっしてあってはならないことですが、人間は神様の御前には相当困難にぶつからないと高ぶりの心は謙遜にならないようです。

 本論に戻りまして、なぜ日本人・日系人の中には、ペンテコステ派・聖霊派が一般のブラジル社会とかけ離れて少ないのでしょうか。

 一つには、日本人日系人の心は、宗教的には、日本からの宗教の影響が3,4世になってもまだ残っているのです。文化は6,7
代まで影響を与えると言う良い例でしょうか。

  第二は、日本人日系人には、激しく感情的な雰囲気に馴染めない性格が在ると言うこと。控えめなのです。自分を外に出さない性格です。

  三つ目は、日系社会が、まだ、ラテン文化に溶け込んではいないと言えましょう。勿論、例外は山ほどあるとしてもです。
  例えば、日系人は二世代で、三分の一は、三世代では、六十%以上が非日系人と結婚しています。

 
それでも他の民族の移民としての同化度は、私の感じる範囲では、日本文化とラテンブラジル文化とは地球の裏表ほど違 いまが、
ドイツ人やイタリア人、白系ロシア人よりも、さらに、中東系ユダヤ、アラブ人よりも、もとっとさらに、インド人、中国人や韓国人よりも早いのではないかと思えます。これは何故か、ずーっと30年くらい考えていました。

    結論は、日本は独立戦争をしていない、と言うことでした。自立とか個性とかが他民族よりも、はるかに希薄であると言うことです。これが現在の存在感を示せない国際政治にも影響を与えているように思えます。話が日本人論へはみ出した観があります。


 それでも何故、ペンテコステ派の影響がすくないのか。
 これについて、全くの独断的な推論はこうです。
 日系人と結婚す得る相手はそれほどラテン的でない、おとなしい異性であって、カーニバルに華やかに踊り回る人々は少ないと言うことです。目立たない、おとなしい、真面目が日本人のレッテルです。
 最も、日本からわざわざカーニバルに踊りに来る方々もおられますが、しかし、その方々は日本では、住みにくく、はみ出している方々で在るかも知れません。誠に失礼ですが…

 四つ目は、日系人の社会的進出です。
 日系社会は、移民として、極めて貧しい掘っ立て小屋の経済状態にありながら、教育を子孫に与えるということに高い価値観を持っていました。それが、多くの優秀な大学卒業生を送り出し、社会的経済的レベルが上がって、癒しや悪霊追い出しなどの熱狂的礼拝から遠ざかったかに見えるの
です。
   医者や弁護士、エンジニア、上級公務員など多く出ています。日本人の
民族性として持っていた勤勉と勉学のせいではないでしょう

  兎に角、財産も地縁も良い教育環境も無い中、日本移民の子供たちは、一生懸命に勉強しました。両親と長男長女が犠牲的に一生懸命に働き、下の子供たちを教育したのでした。



 
  ②    大教会になってくれたらと誰でも思う、望む。ハレルヤ! しかし… 現実には…

     中田個人としましては、日本にもどんどん1000人教会がうまれて欲しい。
  イエス様は失われた者を探し出して、救う、のがみ旨ですから。

     O先生は、もう一つの1,000人教会をぜひ東京に創りたいと食事をしながらいっておました。
私にとっては、素直に素晴らしいと申し
上げます。
 しかし、僅かに3,4の例外を除いて、一方では、圧倒的多くの地方伝道は各地で行き詰まるかけています。
 
      こんなことを申して良いか分かりませんが、思い切って申しますと、かつては、牧師の奥様の労働で牧師の家計は支えられ

 いましたが、今では牧師自身も働かなければ、自分の子供たちを十分に教育することできないほどになっている状況を見ます。
  教会会計は大変なのです。


     日本の伝道の発展は、もっと、教会を増やすこと
だと以前から言われていました。しかし現実には、教会を増やすことよりも現状をどう解決するかが、日本の教会の大問題になってきているのです。
     これをどう解決するかに私の伝道ノート(II) の主眼点があります。日本には日本に合った伝道が在ったはずなのです。
しかし、今までの直輸入のキリスト教国系の日本の実践神学ではそれを教えていません。

   一方、日本には古くからの大きな教団があります。社会派の教団です。このグループはさらに、この傾向は明らかです。
これは、史的イエスの問題や聖書無誤性の問題、それに、福音の理解の問題で、一般信徒と教職者との間に違和感が生まれ、
CS
は殆ど機能せず、教勢は年々衰えて来ています。

   ブラジルには現代神学の影響を強く受けた教会は殆どありません。メソジスト教会やルーテル、聖公会の中の一部の方々の中にはそれが見られます。これは世界的傾向だと思われますが、他の教派のようには、前進は見られません。

    それでは、日本の教会はこれからどのように伝道を展開すればよいのでしょうか。それが子供への、伝道です。
日本の社会の中で、地域社会の子供以外に、伝道できる対象は地方では現在ありません。


 日本のような非キリスト教の伝道は、もっともっと遠回りです。しかし、突破口はあります。しかし、今までの直輸入のキリスト教国系の日本の実践神学ではそれを教えてくれません。
 それが子供への、伝道です。これこそが年金教会からの脱出方法です。これこそが、年々、新しくされていく生きた教会です。本来なら、教会の未来を確実に予測する数字は、教会学校生徒の数です。

  ブラジルでは、大人がこどもを教会に連れてくると言われます。日本では、実は、子供がこどもを連れてき、大人もつれて来るのです。
 日本の社会の中では。地域社会の「子供」以外に、伝道できる対象は現在ありません。

 1,000人教会がさらに生まれるには、どうしたら良いか、考えてみました。
 しかし、この答えは、すでに述べています。現実には、1,000人教会はうまれていますが、それは、極、例外的であって、大々都市の郊外にしか存在していません。
 非常に多くの日本の教会の全般的現状は、会堂は新しくなりまた、説教は整ってきました。しかし、この3,
40年間人数的に現状維持、
財政的には年金生活者の教会になっていると言うことです。社会派の教会ではこの傾向はさらに明らかです。

 それでは、この危機的現状をどう生きた教会へと回復することができるのでしょうか、子供伝道以外に無いと思われます。子供のいない教会は、そのために祈り始めることです。
 教会学校は、もっと子供の気持ちにあった活動的プログラムを持てるよう祈ることです。座っているだけの教会学校では、魅力は無いのです。キリスト教国流の教会学校では、日本社会の子供を捉えられません。

 日本のミッションスクールも、もう一度、使命を新たにしなくてはならないでしょう。
 神学校がもう一度日本の教会の活性化のために、再生のために、それを自覚し努力するように、日本の教会は祈り始めることです。

    一会堂、大会衆主義教会の問題を克服するために

    沢山の活動セルグループを生み出すこと。子供のためのグループも必ず必要でしょう。
    理想はそうなのですが、現実は、100組のセルグループを生み出し、更の生み出して行くのは、並大抵の祈りでありません。組織と言うものをうまく作ってみようとすると形骸化し易いのです。命を持ち続けるのは、大変なことなのではないでしょうか。



Q11.日本の教会では何人くらいの
       集まりが
      「弟子化・キリスト化運動を
      主体的に担う教会」
     として機能するのでしょうか。




  ①  
宣教と弟子作りこそが教会の使命
   
  イエス様に習って、また、大宣教命令に従って、イエスキリストをお伝えし、弟子訓練をする。これが教会に与えられた使命です。

  初代教会もこのことに専念してきました。もしも、この弟子訓練が無ければ、エルサレム教会への突然の大迫害で散らされた人々が、主の証人となれたでしょうか。ユダヤ人と神を畏れた人々のことですから、聖書は十分に知り、自分たちの目の前で十字架に架かられ、三日目に甦られたイエスが、確かに聖書で予言されていた救い主メシヤ、キリストであると信じていたことでしょう。
  その上に、
5,000人以上に膨れ上がった信仰者に、公生涯の初めから昇天までの活けるイエス様をお伝えし、その証人として立証できるように教え訓練することでした。

  迫害によって、多くの信仰者はエルサレムから離れましたが、道すがらに地上を歩まれたイエスが聖書で予言されていたメシヤ・キリストであることを証言し続けました。

  彼らは、地中海の各地から、エルサレムに来、敬虔に神を畏れ敬い、み言葉を学び、祈りをし、礼拝をささげていた人々でしたから、また、救い主を期待し待ち望んでいた人々でしたから、使徒ペテロやその他の使徒たちが語るイエス・キリストの生涯は、固唾を呑んで、さらに知りたいと言う願いの中で、深く熱く心の中に刻み込まれたのでした。


  ②   ブラジルの日系教会の歴史とその評価
  ③   日本人教会が弟子化集団として機能する人数

 

Q12. 日本の教会では 
              50~70人くらいが
  一番「弟子化集団」として充実すると
                    言うのでしょうか。
   
  


  
     礼拝出席50~70人(教会員70~100人)の日本の教会がなぜ望ましいのか

 
   勿論、5,60人の礼拝になるのは大都市の郊外でも、株分けがあったとして2,30年掛かることです。

  ゼロからの開拓では、遥かに大変でもありましょう。

しかし、みなで話し合い、祈りあい、奉仕し合い、献げあって行くには、

   このサイズが一番有機的で相互理解が通じるように見えます。教会は、200名近くに成ってくると、とんでもなく遠くから出席する人が多く出てきます。日本のクリスチャン人口密度から考えると当然のことです。

 特別な賜物を持っておられる方は別として、株分けをした方がその10年、20年後のクリスチャンの数は、遥かに多くなってきますし、大教会の教役者の数に対する礼拝者数と5-70人教会の礼拝者数は、あまり変わりません。

  大教会には、それなりに副牧師や伝道師がいまして、それらの方々が何十人かを分担しておられるわけです。地域性のみを考えますと、もっと地域に半独立した教会(あるいは株分け)を持った方が最も重要な子供たちを、主イエス様にお導きする観点からすると将来の教会のためには、ずーっと大切なように思われます。子供たちは地域以外からはなかなか来ないものです。

 

     一人ひとりがキリストの体に参加できる教会づくりの必要性

②    50人から70人くらいまでが比較的早く成長できる教会員数です。

③   この頃が一番活気があり、新しい教会を生み出す祈りが起こし易いので

 

Q13.  礼拝のあり方は、
  どうあったら良いでしょう


 
  ①    知らずにおこなってきた礼拝形式
   宣教師たちが祖国で行ってきた礼拝形式

  ②    礼拝形式
   アフリカの礼拝、ラテンアメリカの礼拝、日本の礼拝様式

  ③    ブラジルからの新風
   賛美が豊か、聖書的説教

  ④ 全人格的礼拝、ヨーロッパ・ドイツ風礼拝は聖書的なのか、過去の遺物

 

Q14.日本人伝道とキリスト者の
       成長のためには
     教会の数を多くする必要がある
       と言われています。
      それにつてのはどうでしょうか
  ①  
都市での伝道の問題点
  ②   地方教会の伝道
  ③   地方出身者の信仰の成長の場としての開拓伝道
  ④   大都市の開拓伝道の方法



Q35.福音を語ったら、
  あとは聞いた人の責任では
     ありませんか。
             
        
   ①
  
日本人が一度聞いただけの福音に責任を取らなければならないのですか。
   ②   祈りと愛によって福音は広がったのです。
   ③   日本人は、異教国で福音を知ません。
   ④   同胞の救いについての愛と責任が問われている

 
Q36.日本人伝道では、
       個人伝道よりも家庭・
         地域伝道の方が

         大切なのですか。

  
  個人伝道は機が熟した時に

  私個人としては、日本にもっと個人「伝道」のチャンスがあったら素晴らしいと思っています。
 学生時代にキャンパスクルセイドの訓練を受けています。個人伝道がそれほど得意と言うほどではなく、後輩たち
 がどんどん個人伝道していて、羨ましくて、自分はなんて下手なのか、力不足、祈りの足りなさを感じていまた。
 人格的差も大いにあると反省もしていました。


  しかし、実際、ブラジルに来てみて、キリスト教国の持つキリスト教の精神文化、社会への影響力、揺り篭から
 墓場までの人生への一貫対応の歴史を見るに及んで、個人伝道が出来る背景や精神風土を強く感じさせられたので
 した。


  日本とは全然違う!! 

   少なくとも日本での伝道、あるいは日本人への伝道は、ゆっくりとした順調さで進展させるには、少しでもキリスト教への
  理解力を持った社会背景の創造だと気が付いてきたのでした。



   
   「霊的四つの法則」

  キャンパス・クルセイドの想い出は、結構、楽しかったのです。自分もあんな風に伝道できたら嬉しいなと言う感じでた。
  他方、学内のクラスでは、推薦されてクラス委員になりました。他の学友の方が、ずっと優秀なのにです。
  なってみて、友達たちも、6,7人もクラス委員会への参加を、快く引き受けてれて助けてくれました。クラス委員会は週1回、黒板にその日の議題を書き出してオープンで、弁当を食べている他の学友の中で、進行していました。T君もその中にいて、聖書研究会に出てくれて、やがて、キリスト様を受け入れてくれました。

 理科系のこともあって、150人のクラスでただ一人だけの女性もいましたが、圧倒的に男性社会。もう少し女性とも出会い、理解しあうことも大切かと、K女子薬科大との初めての交歓会を開いたり、千葉・市原のH工業やT高圧、茨城のH製作所などの工場見学を計画したりしました。
  また、創設一年目の電子工学科の独自性のあるカリキュラムの中に反映していないと教授会とクラス委員会との検討会も開いたりしました。まだ、コンピューター・クラブが真空管で回路設計をしている最後の頃の時代だったのです。


  
クラスの4,50人くらいと委員会活動で親しくなりだし、祈って、学友にキリスト様を証したいと勇気を振り絞って、個人伝道を開始しました。
 殆どは、見解の差が大きく、もうそのことについては話してくれるなと言われて、感情的に決裂でしたことさえありました。
ここでも、酷い落胆と自分の足りなさをつくづく感じたものでした。どうしてキャンパス・クルセードの後輩たちの、N君やK君やT君、A君のようにうまく出来ないのか・・・と。 けれども。彼らも同じようなことにぶつかってはいたのかも知れませんでしたが・・・


 ブラジルでは、ブラジル人(西欧系、アフリカ系、東洋系まで含めて)へは、四つの法則は、公園でも駅の待合室でもできます。全くと言って良いほど、OKです。感情的しこりは残りません。日系にはなかなか難しいのです。何故、台湾系、韓国系、フィリピン系、ベトナム系でも、OKで、日系では、問題があるのか、これにはおそらく、二つの理由が考えられます。

 一つは、それぞれの本国のキリスト教徒の%が高いからでしょう。フィリピン、ベトナムは、スペイン、アメリカ、フランスの支配下に在ったこと。
 第二は、日本人とそれらの人々は、異国人であるので、精神的に軋轢が無く、気軽に上の空でも、聞いていられる。互いに皮膚に触れて程度
で心にまで立ち入っていない。傷ものこらないと。

  要するに、日本では一般の社会状況の中では、学校でも、職場ではなおさら、そして、教会を取り巻く地域社会でも、家族のなかでも、まだ、個人伝道が出来る状況にはないと言うことです。

  ではどこで、いつ「四つの法則」は使えるのでしょうか。

  一つは、バイブルキャンプの中で、一つは、病院の死期が近づいていると思われるベッドの脇で、ご家族の了解をいただいて、また、教会の伝道集会でイエス様を受け入れる決心の付いた方へ、または、不特定多数の駅前や公園でなら、良いでしょう。
 すなわち、その個人伝道を受ける方自身が、どうしたらイエス様を信ずることが出来るでしょうか、どうしたら平安のうちの神様のみ元に行けるでしょうかと捜し求めている人には、非常に有効です。

 イエスキリストの福音を伝えるということは、非キリスト教国にとっては、喧嘩してまで語ってしまえば良のだと言うことでも
 ないのです。勇ましさは多としても、それが相手の方の祝福から遠くさせてしまうのでしたら、それは、間違った挑戦と言うことになります。


 近隣の方々が、少しでもキリスト教会は良いものでと感じてさり、クリスマスの時だったら行ってみようかなと感じてくださったり、子ども会ならご自分の子供を送ってみようかしらと思ってくださったりと言う、少しの気持ちの変化が生まれてくるこ
 と、これこそが地域伝道なのです。
 
 では、パウロ先生の伝道は、どうだったのか、彼は論戦し、地のちりをさえ払って、ユダヤ人たちと決別したじゃあなか、と言われるでしょうか。
 しかし、ユダヤ人たちは、聖書の知識は幼い頃から十分に教育され持っていたのでした。ですからユダヤ人伝道の定式は、「このイエスがキリストなのです」と言う事を聖書と十字架と復活を通して説得することでした。

  ③     日本人伝道の鍵は、児童伝道から、家庭にで、地域にであります。

    ブラジルでもそうですが、子供の家庭内の位置は、子供第一の面があります。
ただ、ラテンでも聖書の世界では、子供は親に従うものと言う権威の序列はあります。この点、日本ででも変わらない序列があるように見えますが、古い地域では、その序列がもっと確実に保たれているようにみえます。

 ただ、少子化の傾向と核家族化の影響とで、古い形式は崩れ、子供の存在価値はかなり高くなっているように見えます。子供第一の傾向は益々高くなります。

 そこで、生まれることは、子供の教育環境です。共働きの中では、この傾向は、さらに重要な地位を両親は感じることでしょう。

 幸いにして、キリスト教は、親しさは感じなかった関係だけれども、高級、上品、信頼できる知的高さを持っていると思われています。ただ、少し冷たいとも。
 仏教のお坊様のお嬢様がミッションスクールへいく時代なのです。

 わざわざそれほど信頼してくださっているのに、キリスト教会は、大人に向かって長い間、そして今も、二〇三高地の戦い宜しく、正面突破とばかりで死者累々です。
目標の港に浮かぶ軍艦が見える丘はまだそれほど武装されないで残っているのにです。

  子供たちへの伝道と言うより、奉仕は、地域伝道で最も大切でしかも他が届きそうな、しかも、信徒の方々の燃えるような心と体と時間を自発的に総動員できる活動なのです。その代わり教会学校は、思い切って内容を変えなければ子供の心を捕えることは出来ません。

 机はいらない、正面向いた授業はいらない。聖書劇やら楽団やらケーキやカレーライスつくり、植林、キャンプの季刊化、などなど、考えたら続々活動がある。ことに音楽バンドは青少年のお米・主食です。それらは地域の施設訪問の主役です。教会の将来の宝です。押し付けの信仰継承などと言って無くても、10年も経たないうちに主役になっています。
 地域社会の健康的創造的グループに成長するのは間違いありません。

 一教会で無理なら、3,4の教会が月1でも連携して、聖書劇とバンドから始めてみてはいかがでしょうか。元プロ・サッカー選手にお願いして土曜日・月2でも、練習してはいかがでしょうか。

 もう今までのやり方では、十分に時間が過ぎました、証明されました。子供に向かって奉仕するときではないでしょうか。


    ④   個人や家庭を地域社会から離すべからず

 
Q37.みことばの種を
  蒔く前に、どんな注意が
    いるでしょうか。

   ①   良い地を造ることです。
      a.   
まず雑草をとり、石をのぞき、水路を切り、土地を深く掘る。等高線に畝を切り、肥料をあたえ、種をまき、水をかける作業。
      b.    霊的忍耐が必要




 Q38.クリスチャン1%の壁を

打ち破るには、何が大切でしょう。


    キリスト教無関心派95%への伝道が重要です。

   今までの伝道は、もっぱらキリスト教への関心を持った方々5%への繰り返し、繰り返しの伝道だったのです。欧米人への伝道の指導方法でそうなるのです。要するに
  ①   底辺の広いキリスト教が必要です。

  何も知らない方が、突然キリスト様を求めると言うことは、考えられません。例えば、あなたが何かを買い物しようとしましょう。それが良いものかそれほどでもないか、調べます。食品なら、生産日時を見ます。魚なら押してみたり、うろこを開けた、見たりして新鮮度の調べます。すぐに買ってしまうことは在りません。

 キリスト様を信ずることも勿論、その理由やキリスト教への知識を少しづつ心の中に納得しながら蓄えて行くことでしょう。殊に、異教国日本においては。


   キリスト教基盤を持った社会ではそれ以上の工夫はもう今までに社会がして来てくれたのです。ところが日本のような非キリスト教社会では、そうはいかないことを何度となくしつこいようにご説明して参りました。もっと底辺の広い伝道方法がどうしても  必要です。その努力がないと何年たっても1%の壁を超えることが出来ません。

   そのためには地域社会のためには、児童伝道がどうしても、というより殆どそれ以外にないと言うくらい、児童伝道がこの日本には例外は多々あったとしてもどうしても欠かせないのです。

   ダイレクトメールなしに発展なし

 私が、1年半奉仕させていただきました愛知県春日井市の春日井福音キリスト教会、その春日井福音キリスト教会で本当に驚いたことがありました。それは、自転車で10分ほど行った地域だけで、教会の子供特集や日曜学校に来たことのある子供のリストが200名以上なのです。いかに、今までの教会の働きが地域に溶け込んでいたかが分かります。

 子供たちへの伝道をどのように始めるか、4,5ヶ月教会の方々と話し合いました。

  教会裏の駐車場の二つの駐車分を子供の遊具置き場にしてもらいました。必ず、保護者と一緒に利用していただくようにお願いいたしましたが。

  また、子供たちの活動的な教会学校になれるよう、礼拝時間をCSを10時から子供大人合同の部分を取り入れていただきました。それによって家族一緒に教会に来られるようになりました。

  ブラジル人の子供たちも、日本の学校に行っている子供が多くいましたので、合同の子供の集まりになりました。活動的なCSにするには、教師が多く必要になり、説明して、教師を募集しました。なんと、12,3人の方が立候補してくださいました。どうしても、CSと礼拝とが重なってしまうため、礼拝の間、子供と一緒いて、指導する人々が必要となったからです。

  そして、非常に明るい、子供たちの明るい顔の溢れた教会学校、礼拝へと変わって行ったのでした。勿論、礼拝状況は会場階下に流れてはいました。

 この基礎は、新会者のリスト、子供たちのリストなどが3,4年に亘ってとってあったことがありました。前任の牧師の方々が如何に良く訪問なさり、子供たちへの伝道を為さっていたかが伝わってきました。
 

④    子供への伝道が、1%の壁を打ち破る突破口。

   春日井には、もっと目立たないけれど、理想的教会もあります。それが、春日井聖書教会です。
   春日井聖書教会は、もっと教会の立地条件がひどく分かりにくい場所で、激しく教会活動は発展しています。カーナビにも出てきません。最寄の駅からは歩いても、3,40分でも着きません。畑の中です、でも、森に隠れて近くに行っても見えません。初めてでない方でも迷います。

   しかし、青少年伝道に積極的で燃えているのです。大発展中です。中部地方の方は、ぜひ、見に行って見てください。もう、100人礼拝は越えていましょうか。家族が溢れているのです。

   あまり誉めるのは、若い命ぎりぎりで生きておられるS先生には、誘惑となってしまわなければ良いがと心配になりますが、嬉しいものです。

 神学校で、実践神学を教える場合、一番重要なこととして、地域伝道を教えて良いと思うのです。その中でも、殊に、青少年伝道、教会学校、児童への奉仕など
大いに語り合い実践し合って、地域社会に役に立つ伝道者、教会になっていただきたいなー、強く感じています。




 
Q38.クリスチャン1%の
     壁を打ち破るには、
     何が大切でしょう。
          
 
 ①
  
底辺の広いキリスト教がひつようです
 ②   キリスト教無関心派95%への伝道が重要です。
 ③   ダイレクトメールなしに発展なし

 Q38.クリスチャン1%の壁を

打ち破るには、何が大切でしょう。


  ①   底辺の広いキリスト教が必要です。

 

  何も知らない方が、突然キリスト様を求めると言うことは、考えられません。例えば、あなたが何かを買い物しようとしましょう。それが良いものかそれほどでもないか、調べます。食品なら、生産日時を見ます。魚なら押してみたり、うろこを開けた、見たりして新鮮度の調べます。すぐに買ってしまうことは在りません。

 

 キリスト様を信ずることも勿論、その理由やキリスト教への知識を少しづつ心の中に納得しながら蓄えて行くことでしょう。殊に、異教国日本においては。

 ②   キリスト教無関心派95%への伝道が重要です。

 

今までの伝道は、もっぱらキリスト教への関心を持った方々5%への繰り返し、繰り返しの伝道だったのです。欧米人への伝道の指導方法でそうなるのです。要するに

キリスト教基盤を持った社会ではそれ以上の工夫はもう今までに社会がして来てくれたのです。ところが日本のような非キリスト教社会では、そうはいかないことを何度となくしつこいようにご説明して参りました。もっと底辺の広い伝道方法がどうしても  必要です。その努力がないと何年たっても1%の壁を超えることが出来ません。

そのためには地域社会のためには、児童伝道がどうしても、というより殆どそれ以外にないと言うくらい、児童伝道がこの日本には例外は多々あったとしてもどうしても欠かせないのです。

   ダイレクトメールなしに発展なし

  私が、1年半奉仕させていただきました愛知県春日井市の春日井福音キリスト教会、その春日井福音キリスト教会で本当に驚いたことがありました。それは、自転車で10分ほど行った地域だけで、教会の子供特集や日曜学校に来たことのある子供のリストが200名以上なのです。いかに、今までの教会の働きが地域に溶け込んでいたかが分かります。

  子供たちへの伝道をどのように始めるか、4,5ヶ月教会の方々と話し合いました。

教会裏の駐車場の二つの駐車分を子供の遊具置き場にしてもらいました。必ず、保護者と一緒に利用していただくようにお願いいたしましたが。

また、子供たちの活動的な教会学校になれるよう、礼拝時間をCSを10時から子供大人合同の部分を取り入れていただきました。それによって家族一緒に教会に来られるようになりました。

ブラジル人の子供たちも、日本の学校に行っている子供が多くいましたので、合同の子供の集まりになりました。活動的なCSにするには、教師が多く必要になり、説明して、教師を募集しました。なんと、12,3人の方が立候補してくださいました。どうしても、CSと礼拝とが重なってしまうため、礼拝の間、子供と一緒いて、指導する人々が必要となったからです。

そして、非常に明るい、子供たちの明るい顔の溢れた教会学校、礼拝へと変わって行ったのでした。勿論、礼拝状況は会場階下に流れてはいました。

 
 この基礎は、新会者のリスト、子供たちのリストなどが3,4年に亘ってとってあったことがありました。前任の牧師の方々が如何に良く訪問なさり、子供たちへの伝道を為さっていたかが伝わってきました。


④    子供への伝道が、1%の壁を打ち破る突破口。

  春日井には、もっと目立たないけれど、理想的教会もあります。それが、春日井聖書教会です。

  春日井聖書教会は、もっと教会の立地条件がひどく分かりにくい場所で、激しく教会活動は発展しています。カーナビにも出てきません。最寄の駅からは歩いても、3,40分でも着きません。畑の中です、でも、森に隠れて近くに行っても見えません。初めてでない方でも迷います。

  しかし、青少年伝道に積極的で燃えているのです。大発展中です。中部地方の方は、ぜひ、見に行って見てください。もう、100人礼拝は越えていましょうか。家族が溢れているのです。

  あまり誉めるのは、若い命ぎりぎりで生きておられるS先生には、誘惑となってしまわなければ良いがと心配になりますが、嬉しいものです。

 神学校で、実践神学を教える場合、一番重要なこととして、地域伝道を教えて良いと思うのです。その中でも、殊に、青少年伝道、教会学校、児童への奉仕など

  大いに語り合い実践し合って、地域社会に役に立つ伝道者、教会になっていただきたいなー、強く感じています。


 
Q39.  小さな決心を時間を
    かけて一段一段ですか。それは
      不信仰なのでは。

  ①   聖書の世界への反発
  ②   無自己運命共同体
  ③   キリストへの決断・自己主体的決断




 Q40. キリスト教に多少の関心を

持ち始めた人々(Bクラスの人々)には、

どう伝道するのでしょうか。


 
 ①   教会の文化・教育活動への参加案内


      「教会へどうぞ」の前に「家庭集会」を。

 キリスト教に関心を持った方々に、つい私たちは「教会にどうぞ」と言ってしまいがちです。これも、長期的に見るともったいないのです。今のところ教会の集会は多少の関心を持った方々には、無理なレベルです。むしろ、近隣の人々との家庭集会の方が無理が無いのです。

 家庭集会も聖書の学びは少なく、賛美や談話や質問のときを少し長めに取って、交わりを中心としたものが好いのです。家庭集会に参加する人々は、キリスト教に多少関心を持った方々と教会員2,3人が好いのです。

 これらに人々は、クリスマスや特別集会のときにお誘いできる人々で、賛美や聖書のお話には既に耳を傾けてこともあり、教会員の何人かとも既に知り合いになっていて、教会の集会に来られても、それほど違和感を感じません。牧師はいつも一人の人と話し合っている時間がなくても、他の教会員で顔見知りの人が既に何人か居て、新しい方が一人取り残されることは、うんと少なくなり、教会の集会に孤独感を感じなくて済みます。家庭集会は、教会に出席される方々の準備段階として非常に大切なのです。



Q41.聖書やキリスト教に「興味、期待、信頼」 

     を持ち始めた人々(Cクラス) へは、

      どんな注意が必要でしょうか。

    訪問している10軒に一軒の家で、聖書が開かれるように祈ろう
  何回も言っていますように、待っている伝道はキリスト教国の伝道なのです。大変申しにくいことですが、  お尋ねしないと福音は届きません。エホバの証人が
比較的地方でも王国会館を建て上げているのは、そのためです。
  
訪問はそれほど難しいものではありません。ただ、お届けする文書さえあれば気軽に訪ねていれば良いのです。訪ねていると親しさが増して何件かのご家庭にもっとキリスト教や聖書、人生れの指針など知りたいと関心を持ってくださる方が
生まれてきます。

  しかし、聖書が開かれるためには、一軒だけでは長続きしません。同じ地域にすでに集会があれば別ですが、開拓の場合そう簡単に家庭集会が生まれません。 2,3件関心を待った方を待たなければなりません。


 ②   「フランネル絵聖書物語」とその利点 

 a. その家に子供がいても楽しい集会が出来る
  
 b.
 聖書の大切な歴史、イエス伝などで、フランネルグラフは揃っている 
 
 c.
求道者宅で集会をしていれば、教会の礼拝に出ても聖書や賛美歌がどうにか
開けるし、聖書の流れが
  少しは理解できる。しかも、家での集会に来ていた
教会員とも知り合いになっていて不安や違和感が少
  ない。
 

 ③   求道者家の家庭集会を持続させるにはどうしたら良いでしょうか。

 a. 一軒だけでは、駄目。2,3軒をグループにする。
 b. 2,3軒の持ち回り、月に一度。
 c. 信仰の決心の場というより、交わりの場と考え、あまり長い説教はしない。
 d. 教会員がお茶やお菓子を持っていく。その家の負担をかけない。そのことをハッキリと事前に徹底して
  おく。



 
 
Q42. 教会と地域家庭と
    結ぶ5つの接点とは
      なんですか。

 
    A+クラスの家庭(トラクトを配っての反応がキリスト教への反応が無関心、でも、
  「ありがとうと言ってくれた人々派」には

   ②   Bクラス(多少関心派)の家庭には
   ③   Cクラス(キリスト教関心・好意派)の家庭には

 

Q43.都市の開拓は「株分け」が最も
   キリスト化運動には適していると
     思うの
ですか。

      「株分け」は両者に祝福を与える
  ゼロからの開拓は、大変なものです。
 私も、勇ましく、「この家が借りてあります。ここで始めてください」と言われて、神学校でて6ヶ月後に、高松市郊外でい年足らずの短い間でしたが、開拓をはじめました。初めは、市内の教会のメンバーが伝道会の手伝いをして助けてくださいました。助かりました。ポスターつくり、ビラ配り、看板たて、受付、説教、フォローアップ。 結構、20名以上の方が集まってくれ、5名ほどの方が信仰の決心をして、礼拝に出てくれるようになり、礼拝も10-15名くらいの方が出席してくださいました。
  
  この分ならもう少し押せ押せで、第二回目の伝道会をしてみたら、と計画し、その結果は、15名くらい。第三回目は、外からの人は、ゼロ。12,3名の寂しさと冷たい風が心に打ちつける伝道会でした。しかし、3、4ヶ月で、他教会の助け人がそれぞれの教会へ戻られてからが、大変寂しくなり、7,8名の時代が続いたのです。忍耐のときでした。そこでの経験が、この日本人伝道を考えさせる出発点だったのです。この伝道会、外からの人ゼロ、もうその区域には、キリスト教に興味を持つ方はゼロに近かった、と言うことだったのでした。教会に来る人には、キリスト教に関心のある人で、関心度と言う段階、関心の高低レベルが有るのかも知れないと漠然と考えるようになって来ました。それから10年後、アマゾンでの開拓で日本人伝道とは、どのようなものか、少しづつ具体化し始めてきたのです。

 この分ならと。第二回目の伝道会をしておみたら、と計画し、その結果は、15名くらい。第三回目は、外からの人は、ゼロ。12,3名の寂しさと冷たい風が心に打ちつける伝道会でした。そこでの経験が、この日本人伝道を考えさせる出発点だったのです。この伝道会、外からの人ゼロ、もうその区域には、キリスト教に興味を持つ方はゼロに近かった、と言うことだったのでした。教会に来る人には、キリスト教に関心のある人で、関心度と言う段階、関心の高低レベルが有るのかも知れないと漠然と考えるようになって来ました。


Q44.日本人伝道で福音が
     入りやすいのは、
    どんな人たちですか。


   ①   子供たち

  今くらいキリスト教会に対して、地域社会が無関心な時代はないのではないのか、と感じることがあります。しかし、逆に、教会が地域社会に関心が無かったともいえます。

  どのように地域社会のご家庭や、人々に接点を持つことができるのでしょうか。
  考えて見ますとどうにもならないように見えていて鍵は、子供たちへの働きの中に見出すことができるように思われます。

  しかし、子供への働きはもうし尽くしているほど、してきています。それでも子供は教会から遠ざかってしまっているのです。しかし、地方伝道においては、子供以上に反応のある階層はいないのです。ですから、この地域の子供たちしかいないのだと覚悟を決めることです。

  では、どうしたら子供たちが教会に来てくれましょうか。
  今一番困っている人々は、幼い子供を持つ家庭です。母親も働きに出る人が多くなり、勢い、幼児や子供の面倒をみて欲しいと願っている家庭が多いのです。二人か三人からで良いのです。週に2回でもOKです。
  リトミック音楽体操も素晴らしいです。若い母親と2,3歳の幼児。これも週2回くらい。
勿論、子供クラブのような遊びと歌と聖書の5,6分のお話。もし、英語の宣教師が英語の踊りや歌などを教えて、遊んでくれたらなんと楽しいことでしょう。
勿論、学習塾でも放課後のお預かりでも、何でも、教会に、出入りする子供をまず増やすことです。そして、地域と何とかして接点を生み出すことです。

  実は、キリスト教国では、このようなことは考えなくても、教会は十分に地域社会性を持っているのです。揺り篭から墓場まで、教会は地域社会と共存し、地理的にも精神的にも、中心的存在です。2千年それが培われて来ているのです。
  しかし、日本ではそれをこれから、築いていかなければならないのです。教会の地域奉仕作業です。

 
   ②   青年たち  

  日本では、18歳前後が、一番信仰の決心をし易い年齢だと言われます。まだ、社会的束縛や、親への独立心、潔癖な人生観など重なって、読む本や考えることもあっ真剣さがあります。勿論例外も沢山あります。
  小学生時代には沢山の友達がいても、高校生になると本当の友達はごく少なく、表面的には楽しそうに付き合っていても、案外孤独を味わって、本物を探す心の旅が始まります。

 「ゴクセン」と言うドラマを、娘の持って来てくれたDVDで見ました。
  もう,大分古いのでしょうか、ご覧になって方も多いのではないでしょうか、日本のTVドラマです。初めは「ゴクセン」ってなんだろう、どうせつまらないだろうと思って見初めて、ついに気が付けば真夜中をもうとっくに過ぎていました。極道先生と言うことで「ゴクセン」と名が付いたのかなーと思いましたが。任侠一家の孫娘が高校の女教師になり、一番札付きの男子クラスの担任となって活躍する、ドラマです。一日も持たずに辞めてしまうと思っていたのが、ひとり、また、ひとりと心の交流を築き上げ、ついには全員を感動の卒業式にまで行き着かせてしまうのです。

 勿論、この先生のような、文武両道に先生が存在せよと言われたら、日夜日本の現場でご苦労なさっている先生には過酷です。在り得ません。
しかし、先生と共に、高校生が悩んでいる、ホンのものにぶち当たりたい、本当の人生を見出したいと言う気持ちはハッキリと伝わってきます。

 本物は聖書です。その聖書が生き生きと、救い主イエスキリストを指し示しているのです。

 ただ、問題もあります。今の、日本の教会の礼拝は、青年には向いていないのです。青少年に向いた礼拝形式が必要なのです。「ゴクセン」を持ってきてくれた娘が、日本に行っていたとき日本の礼拝に出て、一言「お葬式のようだよ」と。誠に躾けが悪くて申し訳なしです。ブラジルの礼拝に出ていますと日本の礼拝は、そう感じるのでしょう。私の若い頃は、感動して一心にみ言葉に聞き入っていましたが、時代は変わったのでしょうか。

 礼拝は荘厳で静かに感情的でなく、ヨーロッパ神学の修道院で求めていたような厳粛さがどうしても必要なのでしょうか。それとも、「心を尽くし、精神を尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、汝の神を愛せよ」と言う全人的、力動的関係なのではないでしょうか。


   ③   婦人たち
 
 親父さんがたよりは遥かに、福音が入り易い。それでも、何の働きかけもしなければ、全く福音は届きません。


   ④   元日曜学校出席者、元クリスチャン、ミッション幼稚園・スクール卒業生、親戚・肉親にクリスチャンがいる、地域新転入者など

 これらの方々は、本当に大切な福音が入りやすい人々です。
でも、いくら教会のある地域に住んでいても、教会が地域に対して働きかけをしなければ、そのままの状況が続くのです。

 開拓初めの伝道会をいらしてくれる人にも、この種の人はおります。しかし、まだまだ、その地域、自転車で10分の地域には、それらの人々が居るはずなのです。でも、それらの人は、相当のきっかけが無い限り、教会には来てくれません。そして、教会は、相変わらず10名の出席者を越えず、忍耐は続きます。

 すでに、述べてきましたように、地域への働きかけなしに、しかも、その働きかけが多ければ多いほど、それらの方々との接点は多くなるのです。