Picture

 

 
         感動の聖書箇所。    
           
       


01・六日目の最後に創られた男と女の家 「家庭」創世記2

  家庭・・・ 
 これは、神の傑作中の傑作。宇宙よりも、生物よりも、一体の二人を作られた。これで人々は、「所属」を持った。

 心の底から愛し信頼し、相互に自分のことのように心配し、喜びあい、見返りを求めず助け合い、涙を流し合える仲間、無批判で全てを打ち明けられる「所属」を造られた。

 もちろん、性格、性別、物の考え方まで一つと言うのではない。しかし、遠く離れていても、失業し、病に陥り、周囲から全く糾弾され、捨てられても、反って一体感を増し加える。

 所属なしに生きる孤独は辛い。そして現代は、突如としてこの孤独の中に人は怒涛のように流れ込んでしまった。神の豊かな恵みを軽いものとしてしまったために。神は存在してもいい、でも、自分には関係ないと・・・

 主イエスは、決して貴方を離れず、貴方をお見捨てにならない。祈りの中でなんと鮮やかに、イエスは共にいてくださることか。

 


02.突然消えた人、(エノクの意)「短命」創世5:24

  エノク、神とともに歩んだ。
  信仰の父アブラハム以前に既に選ばれた人々がいた。神と共に歩んだ人々。

 「生まれ、・・・を生み、・・・年生き、死んだ」と記述される中で、「65年生きて『槍を投げる者』(メトシェラ)を生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、300年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。神が彼をとられたので、彼はいなくなった」とある。

  神と共に歩んだ。既に地上の生涯が、天国の歩みであった。彼前後の人々が、もっと長く900年程生きたと言われているので、必ずしも、彼の365年の人生は長いとは言えない。逆にかえって極端に短い。長ければ祝福と言うものでもないらしい。

 また私たちの人生にとってみても、イエス・キリストと共に歩くと言うこと以上に、幸いなことはないであろう。何が出来たと言うよりも、イエスと共に歩める人生が一番豊かなことだ。
 私たちの今日の歩みの中に、主イエスと共に歩む幸いな日を、もう一日加えたい。



03.休息(ノアの意)氏一家総出の生涯 「笑いの箱舟」創世6:22

  愚直に生きる。大洪水の前
 ノアとその家族は、神の与えて下さった、図面に従って、長さ約80メートル、幅12メートル、高さ7メートル(戦艦三笠,水線長126.5m、全幅23.2m、基準排水量15.140t程の、三階建の船をつくり始めた。完成するまでに、何年かかったことか。しかも、海よりも遥かに遠い山の上で、である。

 始めはともかく、1年経ち2年経つ内に、人々のジョークとハイキングコースとなったことだろう。皆は、目の前の工事を楽しみ、その愚かさを十分に笑った。
 人々が飲んだり食べたりしている間も、山の上で箱舟を作った。

 その父の指導のもとで長い間かかって、従順に、神の予告を信じ、実行した。世間が神の存在など、どうでも良いとする生活をしている中で・・・
 ついに、箱舟は完成し、入り口の戸は閉じた。真黒な雲が湧き揚がった・・・
 

04.周囲の白い目にさらされる「多数の父」(アブラハム)「超高齢出産」創世17章

  アブラハム。笑(イサク)を与えられる。
 100歳にして、神の約束成就である。故郷を離れ、親族に分かれて(創世2:12)四半世紀。

 さらに、ロトとの別れが一番印象的である(13:818)。ロトは肥沃の土地を遠慮しいしいであったか、選んで去っていった。そのうしろ姿を見ている歳を重ねたアブラハム。移住地では、肉親ほど頼りになる者はいない。しかも若い。周囲は白い目の土着の異民族である。弱肉強食の時代なのだ。家族親族は多いければ多い程よい。

 同伴者を失った淋しさ、しかも、前途多難の不安も。それに、この残された岩地で羊を飼って自分たちはやっていけるのか。しかし、その後まさに、神は「共にいるぞーッ! 私は盾だ」(15:1)「子孫を与えるぞー、空の星のように」(15:5)と声をかけられる。

 今のあなたも、アブラハムと同じ不安を持っただろうか。その時正に、神の声が聞こえて来るのだ。困難の中で初めて、私たちのこころは、神のみ前に従順となる。祈りは真剣に神に近付く。

 あなたにも、この日の緊張がどうしても必要なのかも知れない。活ける主を知るために。

 

 

05.眠れずに不安の中で見た夢「唯一人、石枕」創世28:1019

 
 不安な夜と夢。今、伯父から逃げる帰郷の中で。

 かつて兄の殺意を恐れて一人、自分の家から逃げる。父と兄をだましたのだ。愛する母の緊張の顔から聞いていた叔父の家へ、そして、15年ほどの後、そこをまた、20人は越える家族と多くの羊とともに、追われる心で逃げる。しかし、その旅の先には、兄のエソウが大きな力でまだ存在する。そこへ向かう旅の或る夜、ヤコブは、石を枕に夢を見る。

 天に届くはしごを、み使いが昇り降りしていた。「ここは正に、天の門、神の家だ。それを知らなかった」と驚き、叫ぶ。

 アマゾンに在って何回、「恐れるな。私は盾・・・」との言葉を、聞き、この「ああ、ここは神の家だ」を見、エマオへの道の「主だ!」を経験したことか。

 何と主のご配慮の素晴らしきことよ。自らの愚かなことよ! 

 今の目の前の霧を取って頂きたい、そして、さやかに神のご臨在に触れたい、と願う。しかし、なんと! 既に、神様は全てをご存知で伴に歩み、ご臨在下さっているのである。
 ハレルヤ!


  

06・長袖の夢見る末息子の人生「弁解なし」 創世37

 波乱万丈。鼻持ちならない長袖服の若者。
 突然、兄弟たちに売られた(17,37:2,27)17才。幸運な人(39:2)、女性に欺かれた人、獄に投げ入れられた人。夢を解き明かす人、獄中に忘れられた人。王の夢を解き明かし、宰相になった人(30,41:46)。わずか13年と言うなかれ。若き日だ。
 全家族を救った人。何と多種多様なタイトルを持ち、持たされた人生であることか。

 彼もまた、再び、もとの道に戻れない人生に、踏み込んでしまった人であった。しかし、その始まりは、兄弟たちの激しい憎しみから奴隷として売られ、一週間という短時間に、遠い未知の国に連行されるという、極端に悲劇から始まる。

 だから、思ってもみなかった人生に突き落とされたとしても、神無しの日々があるような、錯覚をしてはならない。

 老父の偏ったまでの庇護の中に育った幼き日々、突然やってきた奴隷と絶望との悲劇を受け入れる能力が、彼の何処に、あったのだろうか。

 まるで、泣いていても物事は解決しないのだ、と言うことをズーっと前から十分に理解していた者のように、行動する。まさに、弁解なしなのである。

 確かに、そのような中でこそ、神は働き始めてくださるのか。
彼は人への恨み事はどこにもない、「神が為さったこと」と言い切ったのだ。

 

 

07.久々の王宮へ、「引き出された者」(モーセ) 「裏切り」出エジプト520-23

 無力。モーセ、立ち往生す。
 モーセは、実に40年ぶりにパロの宮殿の階段を緊張して上った。

 かの日は、彼は王子であった。駆け上る若さもあり、また、そのことも出来た。今は、反逆者の群れの指導者、しかも80歳の高齢の羊飼いであった。彼は精一杯の勇気を振り絞り、神に従って、荒野と羊の群れと家族を後にし、パロ王に会い、宣告した。

 しかし、解放も自由も起らなかった。神の手ほどの雲でさえも、少しも見えなかった。反って、王の心はかたくなになり、同胞の苦役はさらに過重になった。王宮から帰ってきた民の指導者たちは、激しくモーセに怒り、迫った。

 目の前の現実は夢ではない。同胞のさらなる苦しみに、彼は返す言葉も無かった。これが、神にあえて従がわさせられたモーセの行き何処のない、絶望感であった。神は彼を裏切ったのである。

 彼に出来ることは、最後にただ一つ、「祈ること」であった。

 神は「私が、パロにしようとしていることは、今に分かる」と言うことであった。神は「私は主である」(6:1)と言われる。現実は何もかも絶望。全てが不可能の中にいる。果たして、信じうるのか。「今に、分かる」

 

 

 08.樫木(アロン)兄と高貴(ホル)氏の最善策 「ホールド アップ」 出エジプト17:11

 
執り成しの祈り。
 「モーセ、手を挙げるとイスラエル勝ち、手を下ろすと、アマレクが勝った。」

 祈りなくして勝利無し。しかし、逆に、祈り無しに勝ったとしても、その結果は自惚れとなり、自滅となる。人々の戦いのために祈ることがどんなに大切なことであることか

 主イエスは、貴方の信仰がなくならないために祈った、と言われている

 アブラハムもソドムのために祈って、ロトを救い出した。
モーセも何回その背く民( 11:1,12:1,14:2,41,16:2,41,)のために執り成したであろうか。

 私たちの祈りのリストには、何人の名前が書き込まれ、祈り続けられていようか。確かに彼の勝利は、貴方の祈りに掛かっている。



 
09.乳と蜜の流れる地の偵察の結果 「喰うか喰われるか」。13:17-20

 
正反対の結論。
「神のお約束は、何であったか」神様のみ心を知る、信仰の目。

 「その地の人々を、恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる」(民14:9)。 
 12部族の各代表選手がカナンの地を偵察した結果、
10人は「われらは食われる」と言い、2人のみが「彼らはわれらの食い物」と言った。


 ロトはヨルダンの緑の低地を選んだ(創13:10,11。そこが大切な選択の「時」であった。アブラハムから、若いロトの群れが去った。その後、彼アブラハムはヘブロンで祭壇を築き(13:18)、さらに、「空の星を見よ」(15:5) と、臨在の神のみ声を聴いた。

 生まれつきの目の見えない人(ヨハネ9:1)を同じように見ながら、その視覚障害者に対する理解に大きな開きが感じられる。「誰の罪ですか」と「律法」の世界で問う人々と、「神の栄光が表されるために」と「恵み」の世界で語られるみ声と。

 エリシャの若者は、朝、敵の大軍が町を包囲するのを見て、叫んだ。しかし、エリシャは、背後の主の大軍がいるのを見せて、驚嘆させた。「恐れるな、私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだ」(Ⅱ列王6:16
 
この時でも、「その地の人々を、恐れてはならない」と言う臨在のみ声を心に聴くであろうか。いや是非聴きたい者である。



  


 10.弱小の民族を支え続けた言葉「神、主を愛せよ」申命6:4,5

 
誰が主役か。主が「戦って下さる」(6:22,7:1)
 このみことばによって何回励まされたことか。

 み言葉は確かに力だ。「三日、聖書に向かわない者は、ユダヤ人ではない」というユダヤの格言があると言う。聖書は、それほど大切な、人生の羅針盤である。

 イエスは荒野で、み言葉によって勝利を得られた(マタイ4:4)
  私たちは、恵みの主を、どうしても忘れ易い。だから、「聞け、イスラエルよ。こころを尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、汝の神を愛せよ」(6:4,5)、四つの言葉で強調する。

 また、今日の戦いも、主が「戦って下さるのである」

 何度不安に陥ったことがあったことか。いたたまれず、何度、家の中を歩き続けたことか 1時間、2時間と。「この戦いは私の戦いである。黙って見ていよ」とみ声を聞いて、そして眠れたことか。アマゾンは私にとって、大教場であった。
 何回絶望の崖っぷちに立たされ、再臨の主を待ち望んだことか。



 

 11. 弱気解放者か、伐採者(ギデオンの意)「その、その力で」士師6:11 

 
現実とはまったくかけ離れた勧告。
 勇士よ、と言われて、ギデオンは何と感じたか、その返答の端はしに彼の心が表されている。「私を見、私の今していることをご覧になり、私の種族を見、民族の歴史と現状をつぶさにご覧下さい」。何処を押したら、そんな大それた計画と決意と勇気が生まれて来ましょうか… しかし、主は、「その力で行きなさい」。何度この言葉を聴いたことか、何度、迷い悩んでいたことか、そして、何度この言葉によって励まされたことか。

 「そのままのあなたで行きなさい」。

 恐らく、開拓伝道に地方で従事なさっておられる兄弟姉妹、私も同じであった。何度この言葉で勇気付けられたことか。周囲の状況にも、自分の心の中にも、何と多くの恐れと不安があったことか、人を恐れ、周囲の状況を恐れて、人間業では到底解決不可能な出来事に直面して。まさか自分が、そんな大それたことをと不安を感じた。
 しかし、み言葉は・・・

 「その力で行きなさい」。



 

12.指導者の家庭教育「過重」高揚(エリ)の子供たち 1サム2:25, 神名(サムエル)の子供たちサム8:35


 預言者の家庭教育。 
 エリの子供たちを見て育ったはずのサムエル、しかし、サムエルの子供たちも同じ道を歩み始めた。ダビデにしてもそうである。ダビデはその息子に一度も「何のためにそれをするのか」(Ⅰ列1:6)と言ったことが無かったと、聖書記者は伝えている。むしろ、サウロ王の子供たちの素直さが不思議だ。

 ノアのように子供たちとともに何かするのが、よいのかも知れない。子供とともに過ぎ越しの祭りをするのもよいか。もっと子供たちの活躍の場を家庭でも教会でも考えてよい、子供と共に考えて。
 子供たちはいつか、自分の親を越えようと努力し始める。反抗期である。反抗期は、子供の成長にとって非常に大切なのである。あまり親の権威を押しつけても反逆心が強くなるだけである。

 お尻を叩いても何が正しいのかを、教えなければならない、が、それでも、45歳までと言われる。それ以降は、心に恨みが残る。叱った後で、殊に幼児を思い切って誉めてあげる、抱きしめてあげることは素晴らしい、親ばかで良い。

 友人のように努めることが良い結果が出るようだ。親子の間で、友のような心情で語れる状態が保たれているのは素晴らしい。

 

 
13 大預言者の母・恵(ハンナ)の長い年月の切なる願い「蔑まれた祈り」Ⅰサムエル1:15

 
長い忍耐の祈り…。 み言葉はこんなにも孤独な人生を変えるのか…。
 サムエルの母・恵(ハンナ)、憎むべき珊瑚(ペニンナ)との長い間の子供獲得競争に敗れて、全く、打ちひしがれていた。
 祭司エリは、ハンナを理解できなかった。その表面だけを見て「酒によっている不敬虔な女」と見た。たった一人の女の苦しみの祈りを誰が理解してくれようか、しかし、その祈りがやがて、その神の民を祝福する大預言者を生み出すのだ。


 始まりは、女の醜い嫉妬と相手に対する優越感との競争から始まる。しかし、それが長い苦しみの中で昇華されて、神の約束を頂く者となる。その日から彼女はすっかり変わってしまう(v.18)。神のお約束に全く委ねた平安な女性に代わる。今までの生活環境とは少しも変わっていないのに、彼女が完全に変えられた。

 もしも、僅か半年、一年で答えられていたならば、反って人をさげすむ醜い女で一生を終わったことだろう。しかし、彼女は完全に祝福の器に変えられた。私たちも今の困難の中でも、祈りつつ、神の為さる奇跡を待てるであろうか。
 ハレルヤ!
 



 
 14.人を気づかい過ぎた王・求(サウロ)心を見る者Iサムエル15  

 「人を恐れる」人を見て行動することの悲しさ。
 人と較べて活きる人生の愚かさ。「主は主のみ声に聴き従うほどに、全焼の生贄を喜ばれようか」(v25.) 

  サウロは神の御心よりも、人の目を気にし過ぎたようだ。神の声よりも民の声につい傾いてしまった。神の喜んでくださることよりも、民の期待に心の重心を置いてしまった。
 彼が、王に任命された日に、或る人々は、「何だ、こんな奴が・・・」といって祝福してくれなかったのが、忘れられなかった。

 大戦争を前にして、預言者サムエルが犠牲を献げに来るのを待てずに、「民が去るのを見て」自らが犠牲を献げてしまった。その後、サムエルが来るのである。かれは、見捨てないで下さい、「民の見ている前では」私を尊んで下さい、と必死で預言者サムエルに願った姿は、哀し過ぎる。

 軽口の女たちが、戦勝祝いで陽気に、「サウロは千人、ダビデは万人を討った」と歌い踊ったとき(29:5)、彼は心が激しく引きつってしまった。
 それらの人々の評価から開放されるためには、ただ主を見あげる生活を始めることだ。しかも喜んで「主に聴き従う」生活を、人生の指針の第一に徹底して置くことだ。



15.迫害と苦しみの中での輝き「栄誉に潜む危険」Iサム5:19,23.6.9-12.


 迫害が恵み(23:2,4.24:6.26:10,11.30:8.2)
 ダビデの堕落の始まりは、栄誉の頂点で、である(Ⅱサム11:1,2

 サウロに追われている頃の彼ダビデは、純粋、主の栄光のみを求めた。先頭を切って戦い、多くの心打つ賛美を残した。しかし王になってから、部下が大戦争を戦っているのに、エルサレムに留まり、昼寝し、人妻を取り、その部下を間接的に殺した。しかし、神は、慢心のダビデに預言者ナタンを命がけで立てた。息子たちから反逆され、追い回され、部下の命よりも息子アブシャロムの命に涙し、反逆のうちにソロモンを王とした。

  地位や経済的豊かさは、例え、ダビデのような苦しい取り扱いを受けた篤い信仰者をも慢心させてしまうのか。確かに耐えがたい試練にあうことは、私たちは決して願わない。ヨブのようであっては、とても耐えられないと感じる。

 適度の豊かさと平安を私たちは祝福と感じる。しかし、試練こそが実は最高の祝福なのだと神は教えておられるようにも感じる。


 


16.怪力・太陽(サムソン)の祈り「勇士哀しむ」士師13

 ナジル人として生まれる。ナジル人は、神様にその生涯を特別に選ばれていた。
  彼の生涯を見ると、聖なる神が彼を選んだようにはとても感じられそうにない。
 この選びは
、彼には相当、重かったかも知れない。彼はもっと自由に生きてみたかったか。

 しかし、神様は彼の知らないところで彼の生涯を少しづつ導いておられたように見える。強大な力の持ち主、知恵遊びも好き、が、女性に弱かった人。 自分が民の指導者として選ばれていることを知っていたが、それに耐えられなかったか。


 人生の最後に神に祈る
16:28、悲しみの中に勇気を求める祈り。戦死したと考えるべきか。ヘブル13章の信仰の人列伝に名を残す。

 私たちも、自分の生涯を考えると、とても神の民のために立ち上がるのにふさわしくは思えない。それでも、神の与えておられる道を歩まなければならないように心の底では感じてもいる。中途半端に行きたくない、しかし、生きてしまっている。そして、終局となる。如何したら良いのか・・・


 
17.命がけで王に真理の言葉を告げた、「無名集団」列王、    

1列王 大預言者エリヤ、エリシャと同時代に無名の彼らも用いられた。 
  一人の神の人
(1列王.13:19) ヤロブアムは、……祭壇から手を伸ばして、「彼を捕えよ」と言った。すると彼に伸ばした手は萎び…(v.4)
 …与えた印のとおり祭壇は裂け、灰は祭壇からこぼれ出し…(v.5)
 ・一人の年よりの預言者(1列王13:1131) ベテルに住んで、ユダから来た預言者を帰りに家に招き(.11)、一緒にパンを食べ、水を飲んだ(.19)。彼は獅子に噛まれて死んだ(.24)
  ・シロの預言者アヒヤ(1列王14:1) ヤラブアムの子アビヤ病気、王女は変装してアヒヤに来る。v.9、あなたはこれまでの誰よりも悪い、ヤロブアム家を撃つ。
 ・ハナニの子、預言者エフー(1列王16:7)。バシャとその家に「主の目の前に、悪い。全家根絶やし…」
 ・イゼベルが主の預言者を殺したとき、オバデヤは100人を救いだし、洞穴で、パンと水を…(1列王18:4)

2列王
 
・アッシリア王の将軍ラブシャケの言葉(21837)を聞いたイスラエルの王ヒゼキヤは自分の衣を裂き、荒布を身にまとい(同191)預言者イザヤのところに人をやり… イザヤは、「主は言う、彼は引き揚げ、彼を剣で殺す」v.3
 ・ヒゼキアが病で死にかかったとき、イザヤは来て「あなたは死ぬ直らない」(201)
 ベンハダテによってサマリヤは包囲、一人の預言者が王アハブに「主はこう言われる、このおびただしい大軍を見たか、これをあなたの手に渡す」(22013)「アラムは主は山の神であって低地の神でない」と言う.「大軍を全部あなたの手に…」と主は…(同20:28
 ・主はそのしもべ預言者たちによって「見よ、わたしはエルサレムとユダに災いを…聞く者は耳が…」(21:10)
 ・ヨシャパテ「まず、主の言葉を…」イスラエルの王の預言者400人「登って行きなさい」、イムラの子ミカヤ「登って行きなさい」(22:5,8)
 ・祭司たちは女預言者フルダのもとに… 彼女は装飾係の妻「あなたはすべての災いを見ることがない」(22:14)
 ・神の人がこのことを預言して呼ばわった主の言葉通りであった。王ヨシヤは「墓はそのままにしておけ」(23:16,18)
  


18.(エリヤ)も人なり、「大勝利の翌日」I列王19:3

 
挫折。昨日の「大勝利の経験」は、今日の「日常の戦い」には必ずしも役立たない。エリヤでさえも、新しい「今日の祈り」が限りなく大切であった。

 「彼は恐れて立ち、自分の命を救うために立ち去った」。 

昨日の自分は、自分の命など少しも惜しいとは思っていなかった、考えてもいなかった。しかし、何故自分だけが、どうして苦しむのか、もう厭だ、殺してください、と叫ぶエリヤ。

 昨日の大胆な、火を呼び下す公開実験の大勇気は、何処にいってしまったのか。また新たにもう一度、たった一人で祈って、そんな異教の王妃のヒステリーなのろいなど、簡単に乗り越えるはずではなかったのか。
 豪雨が止んだ朝霧の中、背中を丸めて脅えるように逃げだす彼。余りにも危険な状況の中に、民を叩き込んでいないのか。

 聖書は超人を扱っていない。物凄く特別のような出来事も起こるが、しかし、誰もが、神の御前に弱く、祈りなしに活きていけない生身の存在であることを呆れるほどに見せ付けている。むしろ、祈りなしに生きてしまいやすい弱さ、人間的に言えば強さを、いとおしみ、哀れんでいる神の労わりの姿を見る。


 

 19.町を救った城外に出された人々。「我らは良くない」II列王6 

 
神に用いられた病の人々。「われわれのしていることは好くない」  
 II列王6章 明日の今頃、小麦粉一セア( )が1シケル( )・・・

 何と素晴らしい町の外の人たちか。どうせ死ぬのだから、アラムの陣営に行って何かをもらおう、と考えた。その悲劇性をもった人生ではあっただろうが、しかし、その積極性が奇想テンガイな好結果を得た。
 過去への恨みの言葉もない。自暴自棄の心もない。反って、町の人々を助けようとした。勿論、街には家族もいたか、それでも、読後感は爽快だ、美しい、微笑ましい、暖かい。

  
 神様の為さろうとすることは、良く分からないこともある。エリシャはそのことを見通していたが、王の高官は全く馬鹿な話と一笑した。


 彼らが用いられたこと、これが主のみ旨である。
社会の枠から外された人々、世が捨てた人々、しかし、彼らは街の人々を忘れていなかった。



 
20.確かに来る略奪と憤死、真近か、しかし。「絶望すな!」エステル6  

 大逆転。必ず悲劇が起こるはず…しかし

 王国の全ユダヤ人たちに刻々と存亡をかけて悲劇が迫っていた。強大な力の王が指輪をはずし、証印を押したのである。確かに、ユダヤ民族の悲しみと周囲の憎しみの中で、誰もが、必ず悲劇が起こると固く信じて疑わなかった。

 しかし、全く知らないところで、無関係とも思える出来事がスタートしていたのだ。
何故、その夜、最強のアハシュエロス王は、眠れなかったのか。何故、年代紀の書を書記官に読ませたのか、何故たまたま、王殺害計画の件の箇所が開かれたのか。何故、王は栄誉を与えようと思ったのか。何故たまたま、次の朝、ハマンが王宮の外庭に立ったのか…


 自分自身の栄光を求めたハマンと、その命を投げ出した王妃との間に、どんなに大きな祝福の違いのあることか。

 だから、たとえ今の苦難は確かに絶体絶命だと信じなくてはならなくても、その先に、神様のご配慮のあることを、僅かにでも考えてみるゆとりを持って、主に委ねよう。
「だから、落胆するな」主のみ手は、すでに働いているのだ。



 
 
21.トウ胡麻の木より、12万の宿敵の悔い改め、「民族主義の喜劇」。ヨナ4

 ヨナの民族主義。神の大苦心策

 彼は自分自身の意志に反して、自分の心を偽って、ヤケッパチで、無理して大声をだして、街を歩いた。しかし、神は彼の願いに逆らって、大戦果を与えられた。旧約時代に、戦争という方法ではなしに、全く人が殺されないで、霊的戦いでこれほどの戦果を挙げたのはヨナのみ。まるで、旧約のペンテコステ的変革が起きた。

 それは確かに、神様のハッキリとしたみ心、けれども、ヨナは非常に不愉快になる(v.1.)  ヨナにとっては、当然ニネベは呪われ、滅びるべき存在なのだ。

 ユダヤ主義がいかに強かったことか、しかし、神は彼を用いた。大きな魚の中での回心も不十分であったが、大勝利となった。神は従順を用いられるのではないのか、神は人間の不愉快をも、不従順をも用いられるのか。

 丁度、タルシシ行きの船が待っていた、平安で良く眠れた・・・は、必ずしも、これこそ「主のみ旨!」と考え易いが、そう理解し難い。
 み言葉が何と言っているか、ではなかったのか。
 神は確かに、私たちの不忠実さをも十分ご存知で、神の栄光のために私たちを用いられる。



 
22.遠い失われた祖国へ、愛を込めて・・・。「陰鬱な顔の毒見役」ネヘ1

 
同胞愛。ネヘ1: 同国民への涙の祈り 
 ネヘミヤの血を吐くような祈りは聖書の中に残ってはいない。

 「しかし、神よ、彼らに仕技を忘れないでください」という言葉の中に、そのうめきが聞こえる。彼は、地方総督としてある程度の権限が与えられていた。王や王妃は彼を尊敬し、ぜひ無事に帰って来て、また、仕えてくれと願う。

  しかし、王、王妃の大都スサと荒廃したエリサレムとの距離は遠く、敵対する部族は多く、決して快くは思ってくれるどころか、正反対の悪意で満ちていた。罵声を浴びせ、協力してくれるはずの民の指導者たちは敵に内通し、城跡は焼け、廃墟と化していた。

 ネヘミヤは、夜中、密かに自らの部下だけを連れて廃墟の再建のため、状況を探った。困難は内に外に大きかった。


 「神よ」、「神よ」、「神よ」と呻いた、何度も、何度も・・・
 歴史の中に一人立ち、生きることは、あるときには非常に苦しみを感じさせることにもなる。


   

23.喜べ、泣くな、食べよ!「歓喜の宴」ネヘ8:9,10  

 困難な事業の中で。

「悲しんではならない、泣いてはならない。行って上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。主を喜ぶことがあなた方の力です。

み言葉を聞いたときの民の悲しみ、涙、しかしネヘミヤは言う、感謝せよ、贈り物を背よ、祝え、喜べ。

 あの困難な事業を曲がりなりにも、完成へと導かれた同胞の感動が良く表されている。また、ネヘミヤのような民への労りがあればこそ、困難な日々を乗り越え、感動の喜びがあったと言える。み言葉に打たれた、しかし、それは服従を知ったもの、困難な事業を死の隣で乗り越えたものへの報酬であろう。

 神を信じるものには喜びがないと考えては、大間違いだ、喜びこそが力なのだ。ハレルヤ!

 

24.信任された最高顧問・審判(ダニエル)殿さえ。「火炎、また涼」ダニエル6:10.

 平常心。確実な死の宣告を前にしていつものように
 彼にとって、自分の命や社会的地位や、王の信頼や王の絶大な権力や布告は、なんら、いつもの通りの祈りを止めさせる理由にはならなかったのか。それを知っていても、いつもの通り、日に3度エルサレムに向かって祈る。
 偉大なる信仰者にもとんでもない妬みと計略が降りかかって来ることがある。神が守っていてくださらない印ではない。


 獅子の穴に投げ込まれる。こんな信仰者で在れようか。確実な死の宣告を前にしていつものように、祈っている。このような人物であるからこそ、神は安心して知恵も勇気も与えているのであろう。ダニエルには恐怖が無かったのか。しかし、ダニエルは何も変わったことが無かったかのように、いつものようにエルサレムに向かって祈り始めるのである。

 そんなにその予言は、そしてその解き明かしの内容は重大なものであったのか、それとも王の個人的な興味であったのか。勿論王は将来を知りたがっているのであろう。

 毎日の生活の中で,信仰無しに如何しでも前に進めないことは起こる。神様がそのときに私にも平常心を与えてくださるように祈りたい。



25.朝から夕まで、直立で涙「ずぶ濡れの感動」エズ10:1  

 
み言葉への大感動。「立ったままで」エズ10:1 

「人々は立ったままで、激しく泣いた。」強制移住から、自主的に故郷に帰ってみたものの、その地は予想以上に荒れ果て、その現実に、ただ呆然と立ちすくむような日々を過ごしていた人々。そのような中でも、宮は再建され、そこで聖書が朗読された。

  このブラジルの移住開拓を比べて思う。強制移住された地で良くもその子供たちに、また孫たちに自分たちの神様の偉大さを教えたものだ。激しく涙を流せると言う光景を思い浮かべると、安逸をむさぼっている自分の、み言葉に対する感激の無さが歯がゆい。

 もっとみ言葉に感動したい、押し迫られたい、激しく泣きたい、立ち尽くしたい。何と言う甘い日常を感動も無く活きているのか。


 
26.突然の一家喪失の苦しみ「与え、獲る」ヨブ:20

 全面的信頼。主のみ名は誉むべきかな。
 ヨブの困難は、天上界で何が起きているかを知らないことだ。もしヨブが
それを知っていたら、もう少し違った忍耐と祈りがあったかも知れない。

 私たち上に起る突然の困難も、同じである。もし神様からの、現在のこの問題への具体的意図がはっきりと携帯電話を通して理解できれば、もっと違う対処の仕方があったかも知れない。

 もっとも、電話の弊害は、神様へ電話する前に、本来なら、神様に先にかけて十分にお話しするはずの事項まで、人と語ってしまうところにある。

 このヨブの日常的に身に付いていた「主は与え…」を、余りにも公式的な告白だと、簡単に片つけてしまえるだろうか。 

 ヨブ記を読み難いのは、自分よりも遥かに遠いこと、遠い出来事と言うよりも、余りにも酷い現実に直面したくない、と言う、自分の弱さからかも知れない。しかし、このような神様に人生を完全に明け渡している心はいつでも持ちたい。

 

27.七日間も灰をかぶり、涙、涙、涙。「ああ友情」ヨブ1:11-13  

 
真の友情。「七日間声もなく、泣く」(ヨブ1:11-13)
 こんなに凄く濃い友情を私は持てるだろうか。こんなに濃い友情を示してくれる友を、私は持っているだろうか。それくらいか… (v. 12)、声を上げてなき、上着を裂き、塵を天に向かって投げ、(v.13)、七日七夜、地に座って、誰も一言も語らず。

「愛された者」(ヨブ)の痛みが余りに酷かったのを見た彼ら…
 何と言う、深い心からの友情か。相手と同化して見える愛であろうか、それでも人の愛は、その苦しみの底の底には届かなかったのか。しかし、それでも、自分はそのような友にさえなれないのだ。

 


 

 28 望みなく歩む若者二人「共に歩くも・・・」ルカ24:1332

 臨在の主に気付かず。「イエスと共に歩きながらも・・・」(ルカ24:1332)
 エマオの途上の二人の弟子、クレオパともう一人。暗い心で、うつむき加減で互いに語り、歩き続ける。イエスが正に現れてくださるのは、この場面である。聖書が語られると「心はうちに燃える」ものなのである。

 クレオパと「もう一人」は・・・ 中田智之である。イエス様が共に歩んでいてくださり、しかも、気付かないで、暗く、心重い人生を送っている者、まさのそのものズバリ。

  私たちは「イエス様と共に歩みたい!」と願う、しかし、心にそれを感じない。しかしそのとき、そのときまさに、主イエスは貴方と共に歩んでいてくださるのである。

 その食卓での祈りは、まさに、主と共なる祈りなのである。


 

29.同僚は殺され、明日は我が身の・・・「確かな死が」使徒2:14-16 

 「人は人」。ヤコブは殺され、ペテロまでもが・・・。
 その晩の祈祷会は、ペテロが立派に、キリストの僕として、殉教できるようにという祈りであったろうか。誰一人として、ヤコブと同じでない人生がペテロに待っているなどとは、思ってもみず、願ってもいなかったであろうか。

 「なぜ、彼は祝され、自分は一人注目もなく消えていくのか。」「彼は栄え、私は衰える」「その人にどんな人生が待っていたとしても、貴方は私に従いなさい」

 人のことが羨ましいときは、スランプなのだと、或る方が言っていた。神のみ前に一人立つことは、必ずしも他の人と同じ人生をすることではない。

 ペテロはまさか、ペテロの「座」が、やがて、ローマの大教会の中に設けられるとは露ほどにも考えていなかったであろう。彼が三度目に「例えそうであったとしても、貴方は私に従いなさい」と聞いたとき、心細さの中で、ハイともいえなかったであろうか。それが私共の献身であったようにも感じる。


 
30.3000人に仕える執事の一人・王冠(ステパノ)  逆転へ」使徒81-8  

 迫害。 エルサレムはキリスト者への激しい迫害の渦となる。それによって、福音は、ユダヤとサマリヤへと広がった。この迫害が無ければ、たとえ使徒であったとしても、
3,000人の会衆とその周囲の人人の取り扱いだけでも、十分時間が足りない。また、十分に充実していると思う。


 生まれ育った地にいたい、既に高い地位を得ていて、あえて冒険をしたくないものなのだ。そして、福音はそこで留まってしまったかも知れない。しかし、それでは使徒18の「・・・さらに、地の果にまで」のイエス様の予言は成就しなくなる。

 迫害が来た。思ってもみなかった大迫害であった。それは、悲劇なのか、勝利なのか。不幸なのか、神のご意志であったのか。対抗改革で立ち上がったジェスイットの聖徒たちは、海外へ宣教の冒険に飛び出した。

 その一歩の従順が、神の祝福の器となる秘訣であった。

  その初代教会に対する迫害によって、福音は異邦人にまで、小アジアを超えてヨーロッパにまで向かって行くのである。


  
31.初代教会の大迫害者・求(パウロ)使徒「ペストのような奴」使徒9:15  

 神の選び。「パウロ」(使徒9:15)
 キリストの意志の対極に活きたパウロ。今、ダマスコの途上で主にお会いする。今までとは、全く違った海図のない人生が始まる。だれが彼の人生を理解できよう、自分自身でさえ何が起こったか分からない。

 自分自身の過去、熱心ではあっても、本物に出会っていない虚しさ、律法で解決しても解決できない深い罪、そして多くの純真なキリスト信者を殺した苦しみ。
 しかし、再び後ろに戻れない人生に踏み込んだ。神は「神への最大の敵」を最大の使徒として用いた。
 ダビデも若き日、戦場にパンとチーズを運んでいるときに、思っても見なかった出来事に出っくわす。そして、ゴリアテを倒すことによって、もう戻れない道が始まった。

 私共の人生においても同じである。その日を境にして、人がペストのような奴とののしろうが、それが、主イエスご自身が与える、栄光の生涯なのである。

 

 

 

Picture